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十六人谷

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こんな話がございます。

世に深山幽谷ナドと申しますが。
日の本第一と申しますト、やはり越中富山の黒部一帯でございましょう。

飛騨の峰々を、斧で真っ二つに切り裂いたような深い谷。
そのあまりの険しさゆえか、辺りの山は立ち入り自体が一つの禁忌でございます。
今でも、加賀の奥山廻りのお役人と、その他には近在の杣人――木樵ですナ。
これらを除きましては、山へ入ることが許されておりません。

黒部に限らず、山には掟というものがございまして。
まず、山の神というのは女でございますから、これに嫌われてはなりません。
よく女人禁制などと申しますのも、元はこれが理由の一つです。
神とはいえ女ですから、どうしてもそこは嫉妬深い。

また、山中で見聞きしたことは、決して他言してはなりません。
これも古くからの戒めとして、よく知られるところでございます。
雪女や鶴女房が、自身の素性を頑なに隠したがりますが。
あれも、もしかすると山の神だったのかも知れません。

さて、この黒部の麓の里に、弥助と申す老人がおりました。
老人は長年、木樵が山へ入る際の飯炊きを務めておりましたが。
近頃では目が悪くなったためか、庵のように小さな家に籠もりきりで。
庭で育てた雑穀を食べ、ひとり細々と暮らしておりました。

ある時、加賀から奥山廻りのお役人が、老人の家を訪ねてまいりました。
ト申しますのも、このお役人はいつも弥助老人に山の案内を頼んでおりましたので。
戸口に立って声をかけようとして、お役人はふと妙に思った。

中から老人のぽつぽつと話す声が聞こえてきます。
はて、今日は珍しく客人でも来ているのだろうか。
ト、戸の隙間から中を覗いて驚いた。

美しい娘が一人、弥助の前にちょこなんと座って、話に耳を傾けている。
この近在では――いや、金沢城下ですら見たことのない美人です。
暗い荒れ野に、一輪の花が佇むような可憐さで。
お役人ははっと息を呑み、しばし見とれておりました。

「そんなにせがまれても、話せんものは話せんよ」

老人は困ったようにそう言いましたが。
まるで孫のような娘を相手に、話を楽しんでいるようにも見えました。
もっとも目が悪いので、その美しさも見えてはいない様子です。
一方の娘は、じっと黙って老人を見据えています。

「そこまで言うなら、話さんでもないが。しかし、弱ったの」

ト、無言の娘相手に、弥助老人は口ごもる。

「弥助さん、耄碌したんではなかろうか。しかし、あの娘は一体――」

老人は声をやや潜めると、ぽつりぽつりとまた話し始めました。

かれこれ、四十年も昔のこと。
弥助もまだ二十歳そこそこの若者でございました。
ある時、杣人衆が山へ木を伐りに入ることになりまして。
弥助も飯炊きとして同行することになりました。

木樵たちはみな、弥助と同じ年頃の若者でしたので。
普段、里にいる時は、女の話ばかりしておりますが。
山に入ると打って変わったようになるのは、それもこれも掟のためで。
もっとも、弥助はうぶでしたから、里でもその手の話には加わりません。

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険しい崖道を這うように登り、一行はようやく山小屋まで着きました。
その日はもう遅かったので、みなで小屋に泊まりまして。
翌日から仕事をする手はずになっておりました。

さて、その晩。
弥助は妙な夢を見ました。

小柄で悲しげな表情の女が、弥助を見てしきりに哀願いたします。

「この先の谷に柳の木が一本ございます。どうか、あの木だけは伐らないでやってくださいまし」

弥助はうんともすんとも答えませんでした。
答える間もなく、女が姿を消したからでございます。

翌朝、一行は手頃な木を探しに小屋を出発しました。
弥助は昨晩の夢の話を木樵たちにしようかと思いましたが。
それが女の話であるだけに、やはり言えずにおりました。
またうぶなのをからかわれるのでは、トいう思いも内心あった。

「おーい、みんなこっちへ来てみろ」

木樵のひとりが、仲間たちを大声で呼ぶ声がします。
駆け寄ってみると、そこに大きな柳の木が聳えておりました。
数百年を経ているのではないかと思われる、立派な巨木でございます。

あッ――。

ト、弥助は声を上げました。

ところが、木樵たちはそのことを知りませんので。
まるで女にふるいつくように、目の色を変えて斧を振り上げました。

斧がびゅんと風を切る。
その一瞬の音の中に、弥助は女の声を聞いた。

「伐らないでやってくださいまし。伐らないでやってくださいまし――」

カーン、カーンと、斧を入れる音が谷にこだまする。
弥助は思わず叫び声を上げました。

「伐らないでくれッ」

飯炊きの唐突な申し出に、木樵たちが振り返る。

――チョット、一息つきまして。

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コメント

  1. 深川八幡太郎 より:

    時を経て現れた柳の怨みと山の掟。その時間や猶予は老人に対してどのような意味があったのでしょうか。
    私には老人の最期を看取るべく現れた情けのような気もいたします。

    • onboumaru より:

      柳の精は恐らく老人のことを恨んではいなかったのでしょうね。
      直接手を下した木樵ではないですし、一応「伐るな」とは告げましたから。
      (某アニメでは十七人目の木樵として描かれるようですが、元の伝説では飯炊きだそうです)
      いろいろな解釈が成り立ちそうですが、私も似たような感想です。
      また、老人側から見ると、死と引き換えにでも老年の寂しさを埋めようとした哀愁と倒錯を感じます。