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阿闍世王と釈尊

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どこまでお話しましたか。
そうそう、裏山の仙人が転生して王子となると聞かされた頻婆娑羅王が、その寿命の尽きるのを待ちきれず、軍を送り込んで殺してしまうところまでで――。

やがて韋提希夫人は、めでたく懐妊いたしまして。
十月十日が満ちますト、元気な男の子を産みましたが。

仙人の最期の言葉を伝え聞いていた頻婆娑羅王には。
急に我が子の存在が恐ろしく思われてくる。

王は乳をやっていた韋提希夫人から、我が子阿闍世を奪い取りますト。
望楼に駆け上がって、二階から子を投げ捨てた。

必死に追いかけてきた韋提希夫人が、思わず「あッ」ト声を上げる。
乳飲み子は宙を二度、三度、旋回いたしまして。
最後は叩きつけられるようにして、地に落ちましたが。

駆けつけた韋提希夫人が、恐る恐る我が子を抱き上げてみますト。
王子阿闍世は、指を一本折ったばかり。
その他はまるで無傷でございます。

「それでは、父君は――」

あまりのことに、阿闍世王子は言葉を詰まらせた。

「左様でございます。お生まれになったときから――いや、その以前から――王は貴方様を憎み、恐れられていらっしゃるのでございます」

次第に阿闍世の表情が歪んでいきました。
憎悪と怨恨とがひとりでに匂い立つようでございます。

「お前はどうして釈迦仏を害せんとする」
「かような王と王后を信徒に抱き込み、多額の寄進を巻き上げているからでございます」

阿闍世はしばらく黙って考えておりましたが。
やがて、おもむろに口を開きますト。
たった一言、こう命じました。

「王を捕らえよ」

頻婆娑羅王はあっけなく捕らえられ、牢に幽閉されました。
王宮から遠く離れた、七重の壁を巡らせた牢でございます。

こうして阿闍世は父から玉座を簒奪する。

「人ひとり通してはならぬ。たとえ大臣たりとも近づいてはならぬぞ。罪深き先王を、七日のうちに餓死させるからそう思え」

国の重臣たちは、新王の暴虐さに恐れをなして、逆らおうとしない。
提婆達多は、ついに摩竭陀国王の側近、国を牛耳る立場となった。

この時、頻婆娑羅王の幽閉を心から嘆き悲しんだ者が一人おりました。
先王の妃であり、新王の母でもある、韋提希夫人でございます。

夫が息子によって殺されようとしている――。
そのことももちろんでございますが。

その邪悪な宿命の種子はと申しますト。
もとはと言えば、みずからの胎内に植えられたもの。
それが芽を吹き、育ち、今こうして世に現れ出ましたからには。
悪果を成したその土壌は、みずからのこの肉体に他なりません。

夫人は密かに一計を案じまして。
みずからの身体にこっそりと蜜を塗る。
装飾の中に麦粉を練ったものを忍ばせまして。
我が子阿闍世に黙って、先王のもとへ通っていった。

阿闍世王は、憎き父王の死の知らせを、今か今かと待ちわびている。
ところが、幽閉されているはずの怨敵は、いつまで経っても死にません。

妙に思った提婆達多が、内偵を牢に送り込みますト。
そこで初めて、韋提希夫人の行動が露見いたしました。

阿闍世王は大いに憤激いたしまして。
ここに至り、いよいよ人らしい心を見失う。

母を捕らえて召し出させますと。
あろうことか、みずからの剣を抜きまして。
母の首を斬り落とそうといたしました。




「おのれ、国賊のともがらめ。国賊のともがらめ――」

奥歯を噛み締め、憎悪を剥き出しにしておりますが。
振り上げた剣はト申しますト。
こころなしか小刻みに震えている。

「大王。先王は死にましたッ」

沈黙を破るように、大臣の声が広間に響き渡りました。

それでも阿闍世王は、振り上げた剣を下ろしはいたしません。
剣を握りしめた両手のひらから、汗が腕に伝っていく。
先にもまして激しく震える剣先。
母は何も言わず、ただうなだれて首を差し出している。

その時、広間でその様子を固唾を呑んで見守っていた人々は。
王の剣の震えが尋常ならざることに気がついた。
見ると、王が苦痛に顔を歪ませて、ブツブツと何かつぶやいている。

「痛い、痛い。頭が――。頭が、割れるように痛いぞ――」

王はそれでも必死に剣を握りしめている。

ト、そこへ――。

「王よ。その剣を下ろしなさい」

静かに問いかけながら、現れたのは他ならぬ釈尊でございます。
国の行く末を憂いた大臣が、提婆達多を遠ざけ、密かに招き寄せたのでございます。

「王よ。先王は亡くなりました」

その瞬間、左右に激しく揺れていた王の剣先が。
急にぴたりト止まりました。
まるで、罪の咎めに抗うように。
王は苦痛に耐えながら、剣を強く握り直した。

釈尊は全く動じることなく、言葉を続けます。

「王よ。先王は亡くなりました。――ただし、それはあなたの罪ではありません」

その一言に、阿闍世王はハッと仏を振り返る。

「先王はみずからの罪の報いを受けて、亡くなったのです」
「な、なんだと――」

阿闍世王は苦痛に歪ませていた目を、思わず見開きました。

「先王はみずから撒いた悪因によって、悪果を得たに過ぎません。王よ。あなたに罪があるとすれば、それは罪も無き母親の首を今まさに刎ねようとしていることです。改めて言いましょう。その剣を下ろしなさい」

阿闍世王の目に、徐々に涙が溢れ出していきました。
零れ落ちた涙のしずくが、母の額に当たって跳ねる。

若き王の曇った胸は、ようやくこの時、晴れ渡りまして。
あれ程締め付けるようだった頭の痛みも、すっと引いていきました。
王は母に手を差し伸べ、ともに抱き合って泣いたと申します。

互いの心の葛藤が、互いの心に恐怖と憎悪を引き起こすという。

そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。

(「今昔物語集」巻三第二十七『阿闍世王不父王語』他ヨリ)

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