班女と梅若丸 隅田川

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どこまでお話しましたか。
そうそう、都からやって来た物狂いの女が、隅田川の渡し舟に乗り込むところまでで――。

「――いや、一年前どころじゃない。ちょうど去年の同じ月、同じ日です」

語りだして船頭は、ハッと気付かされたように言う。

「三月十五日か」
「左様。都から人買いがやってきましてな。傍らには幼き者の手を引いている。まだ十二、三歳の子供です」
「あくどい奴がいたものだ」

商人は呆れ顔で酒をぐいと呑む。

「子供の方でも長旅に慣れていなかったのでしょうな。もうこれ以上歩けないと言い出しました」
「か弱い身では致し方ない」
「世の中には不心得者があればあったものです。煩いついたその子を、人買いはこの辺りへ捨てていってしまった」
「酷い奴だ」
「人買いはひとりで奥州へ向かう。残されたその子を、我々土地の者が不憫に思って看病しましたが、余程道中無理を強いられていたのでしょう。もはや弱りきって、末期に臨んでいるように思われました」
「かわいそうに」
「せめてきちんと弔ってやりたい。そこで、国はどこだい、名は何と言うんだいと尋ねますと」
「尋ねると」

ト、商人が身を乗り出す。

「都の北白河に住む吉田の何某(なにがし)の一子だと申します。父には先立たれ、母と二人で暮らしていたところ、人買いにかどわかされて、ここまで連れてこられたのだと申しました」
「なるほど。貴人の子息だったのだな」
「左様。身なりは粗末でも、ひとりでに気品が匂い立つような童子で。自分が死んだら、路端に塚を築いて埋めてほしいと申します」
「ほう」

船頭はさもいたわしそうに思い出しつつ。

「都の人の手の影、足の影まで懐かしい。縁あらば、せめてその通り過ぎる姿だけでも、地下より見守っていたい。殊に母上様の名残惜しさよ、と」
「そうして、その子は」
「生年十二歳、名は梅若丸と言い残し、念仏を四、五遍唱えますと、ついに息絶えました」

二人はしばし、口をつぐんだ。

「それでは、あの柳の木は」
「頼まれた通りに塚を築き、目印に植えたものでございます。今日はその子の一周忌でございます。土地の者が集まって、念仏で回向しているのでございましょう」

語り終えたところで、舟はちょうど岸に着く。

「ついつい、長話になってしまいましたな。客衆もどうかあの念仏の輪にお入りいただき、かの童子の跡を弔っていただきたい。――ヤッ、狂女も今の物語に思うところがあったようでござるよ。ご覧なされ。ぽたぽたと涙を流している」

言われて旅人は狂女に一瞥をくれましたが。
そのまま岸へ上がって立ち去っていった。

「舟が着きましたぞ。さあ、お降りなされ」

船頭は狂女に手を差し伸べる。
狂女は振り返ることもなく。
じっと身をこわばらせたままで。

「のう、船頭どの」
「何です」
「その子の父の名は何と」
「吉田の何某と申しました」
「子の年はいくつだと」
「十二歳と申しました」
「その子の名は何と」
「梅若丸と申しました」

それだけ確かめると、ぐっと言葉を飲み込んだ。
肩を震わせているのがわかります。

「して、その子は死んだとおっしゃるか」

船頭はその問いには答えずに。

「私が案内いたしましょう。どうぞこちらへおいでなさい」

ト、女の手を引いて岸に上がりました。

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人々のすでに立ち去った柳の木の下で。
物狂いの女はいつまでも飽くことなく。
子の墓標を見守るように立ち尽くしている。

「母御の弔いがあればこそ、亡者も喜ぶというものです。さあ、念仏を唱えておやりなされ」

見かねて船頭が女の首に。
鉦鼓を掛けてやりましたが。
女は涙ながらに首を振る。

「それでは、あの子が成仏してしまうではないですか」

ト、泣き叫びますト。
子を葬った塚にひれ伏しまして。

「この土を堀り返して、もう一度、この世での姿を母に見せておくれ」

ト、塚の土を両手で掻き出そうとする。

すでに月は澄み、冷たい川風が吹き抜けている。
船頭は狂女を抱き抱え、落ち着くのを待って唱え始めた。

「南無西方極楽世界。三十六万億。同号同名阿弥陀仏。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

やがて、母も観念しましたか。
声を揃えて弥陀の称号を。
唱え始めるや、塚の中から。
愛らしく優しい声が響いてきた。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。母上様にてましますか。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏――」

ふと見るト、塚の陰から。
一年前に見た梅若丸の面影が。
母を慕って現れ出たのが。
船頭の目にもはっきり見えた。

「おお、我が子かえ」

母は思わず抱き寄せようト。
両手を広げて伸ばしますが。
幻は瞬時にその腕をすり抜ける。

母は再び我が子の姿を追い。
やっと見つけて手を伸ばすト。
影はまたもや、はたと消える。

終わりのない狂人の舞を。
船頭はただじっと見守っていた。

遠い東の地に、母が探し当てた我が子の面影は。
すでに春の夜の幻に包まれていたという。

そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。

(世阿弥ガ子、元雅作ノ謡曲「角田川」ヨリ)

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