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怪談乳房榎(一)落合の蛍狩り

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どこまでお話しましたか。
そうそう、姦夫磯貝浪江が邪魔になった師匠の菱川重信を殺すため、下男の正介を仲間に引き入れるところまでで――。

正介は浪江に脅されながら別れてまいりまして。
土産の折詰を提げて、ひとり南蔵院へ戻りました。
蒸し暑い夏の夜でございます。
重信は団扇を手に縁側で涼んでいる。

「只今戻りやした」
「おお、正介か。一杯聞こし召してきたようだな」
「一杯どころでねえ。大層馳走になりました。ほれ、これが土産の肴でごぜえます」
「どれ。せっかくだから、開けてみようか」

ト、重信が折詰に手を伸ばしますト、正介が慌てて遮りまして。

「いけねえ。これはここで食うもんじゃねえんで」
「おかしなことを言う。では、どこで食えと言うのだ」
「浪江さんも申しておりやしたが、先生はあんまり根を詰めておいでになる。今夜は天気も蒸しますから、どうでがす。落合へ蛍見物なぞおいでなすっては。わしがお供いたしやすから」
「なるほど。そいつはいい」

重信もすっかりその気になって、身支度を始める。
正介は敷物やら折詰やら酒を入れた瓢やらを持ち。
腰には木刀を差して、重信とともに寺を出た。

空は宵闇。
月がまだ出ぬ上に、梅雨雲が重々しく群がっている。
鼻をつままれても分からぬ漆黒の帳(とばり)。

神田上水に沿ってしばらく歩くト、もうそこは落合で。
玉川上水トここで落ち合うから落合村。
この辺りの蛍は他と違って大粒でございます。
その飛び交う様は明星の空を乱れ飛ぶようとも申しますが。

「良い景色じゃ。この有様はなかなか絵には描けぬ」
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏――」
「これ。どうして念仏を唱える」
「わしにはどうしても人魂に見えてなんねえ」

何も知らない重信は、怯える正介に苦笑いをいたしまして。
敷物を敷かせて、折詰を開け、飛び交う蛍を肴にし。
普段は飲めぬ酒を今宵はしきりに口へ運びました。
何時になく上機嫌でございます。

墨を流したような夜の闇。
ふっ、ふっト、放たれては消える仄かな光。
二人の目の前を彷徨うように舞う蛍の様は。
まるで名代の絵師に何かをささやいているかのよう。

「だ、旦那様。大変だ。どこかで雷が鳴りました」

重信がうっとり見とれているのをよそに。
正介は慌てて帰り支度を始めました。

「まだいいではないか。せっかく興に乗ってきたものを」
「雨が降ると、ここらはすぐにぬかるみやす。早く帰らないと面倒になる」

正介があんまり急かすので、重信は渋々立ち上がりましたが。
思いの外に酔いまして、すっかり千鳥足でございます。
夏の虫が鳴き連なる藪道を、正介は主人を追い立てるように歩いて行く。

リーン、リーン。
――ああ、もうそろそろだべい。

リーン、リーン。
――ああ、もうそろそろだべい。

リーン、リーン。

――ズブッ。

藪から棒トハまさにこのことで。
突然、茂みの中から長い竹槍が突き出て、重信を襲う。
重信は腿を突かれながらも、脇差しを抜いて正眼につける。

「卑怯者。名を名乗れ」

ト、叫びましたのは、夜の暗さに相手が見えていないからで。

「正介、助太刀をいたせ」

主人が叫ぶその声に、慌ててかぶさるようにして。

「正介、約束だ。木刀を取れ」

ト、叫んだ声は磯貝浪江。

正介はここで手伝わぬと、浪江からどんな目に遭わされるかト。
目をつぶり、木刀を振り上げ、エイっと後ろから主人の頭へ振り下ろした。

ドンと鈍い音が響く。

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「おのれ、正介か――」

重信はまさか後ろから打たれるとは思ってもおりませんでしたから。
振り返りざまに、正介を驚いたような、恨めしいような目で睨みました。

浪江はここぞとばかりに、師匠の足を払いまして。
馬乗りになるや、あばらから腹へ深く切り込んだ。

「正介、早く行け。示し合わせた通りにうまくやれ」

時しもゴロゴロと雷鳴が轟き。
ポツポツと雨が降り出しますト。
瞬く間に盥をひっくり返したような豪雨となる。

鮮血が雨に流されていく。
足元がたちまちぬかるんでいく。

「行け、早く行け」

血ト雨トに濡れた浪江にどやされまして。
正介は取るものも取りあえず逃げ出していく。
南蔵院の門の前までやってまいりますト。
破らんばかりに、門を激しく叩きました。

「大変だ、大変だ」
「おやおや、正介どん。そんなにずぶ濡れになって、どうしたんだよ」

所化(しょけ。修行僧)や小坊主が、身をすぼめながらやってくる。

「先生が、先生が――」
「なに、先生が」
「道で狼藉に遭って――」
「道で狼藉に」
「こ、殺された」

その言葉に、所化も小坊主も驚くどころか、顔を見合わせて呆れている。

「正介どん。お前さん、酔っているね」
「いや、ふざけているんではねえ。先生が落合の藪道で狼藉者に――」
「だから、酔っていると言うのだ。だって先生はもうとうにお帰りになって、本堂で絵を描いていらっしゃる」
「ば、馬鹿な。嘘を言うでねえ」
「嘘だと思うなら、本堂へ行ってみなさい」

ぞっとして立ち尽くしている正介を、所化が連れていきまして。
入り口の方から、本堂の方を覗かせてやりますト。
確かに、障子屏風を立て回した中に、ろうそくの火を煌々と照らしまして。
絵筆を持ち、何かを描いている影が写りました。

正介はいよいよ驚いてしまって、声も出ない。
そっと近づき、指に唾を付けて。
障子屏風に穴を空け、そっと中を覗きますト。

今しも主人は「菱川重信」トいう落款を書き終えまして。
筆を静かに傍らへ置き、印をぐっと力を込めて押している。
その姿が何となく、痩せ枯れていて凄みがある。

「正介。何を覗いておる」

ト、突然振り返って言ったその言葉が。
がらんとした堂に響き渡ったその物凄さに。
正介は「あっ」ト、ひと声上げたきり。
その場にドッと倒れ込んでしまいました。

途端に一陣の風が火を吹き消して。
辺りは闇に包まれた。

騒ぎを聞きつけて駆けつけた和尚様が。
雪洞を手に本堂へ入っていきますト。
そこに重信の姿はすでになく。
件の龍の絵が残されているばかり。

ところが、その絵をつぶさに見てみますト。
昨日まで描きかけだった雌龍は、見事に描き上がり。
落款に印の朱肉も生々として、まだ乾いていない。

まるで、つい今しがた描き終えたばかりのように、黒い墨がじっとり濡れていたという。

そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話のこれが発端でございます。

(三遊亭圓朝作ノ落語「怪談乳房榎」ヨリ)

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