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怪談乳房榎(二)四谷十二社滝の亡霊

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どこまでお話しましたか。
そうそう、浪江に脅されて真与太郎を滝壺に投げ込んだ正介の前に、重信の亡霊が現れて仇討ちの後見を命じるところまでで――。

主人重信の亡霊に叱責されて以来。
正介はすっかり心を入れ替えまして。
きっと己が真与太郎を立派に育て上げ。
仇磯貝浪江を討たせるのだト。

あれから行く先々でもらい乳をしながら。
生まれ故郷の練馬赤塚村へやってきた。

ここには姪夫婦が暮らしておりまして。
親身に二人の世話をしてくれますので。
安穏のうちにその年は暮れてゆき。
翌年の正月になりました。

こうして乳飲み子の真与太郎も。
はや三才にはなりましたが。

いずれ仇討ちをするトなるト。
きっとこの家に迷惑をかける事になる。
どこか手頃な住まいはないものかト。
正介が思案にくれておりますト。

この村に松月院ト申すお寺がございまして。
最近まで爺婆が門番をしておりましたが。
今は誰も門番小屋に住む者がなく。
すっかり空き家になっているトいう。

正介は真与太郎と二人で、ここへ引き移り。
門番をしながら暮らすことにいたしました。

さて、この寺の境内には、一本の榎が生えておりましたが。
ちょうど正介が門番になった頃、妙な信心が流行りだしました。

この榎には瘤がいくつかぶら下がっている。
それが見ようによっては、乳房のようにも見えるトいう。
ト申しますのも、この瘤の先から甘い露がしきりに垂れますが。
何の事はない脂でございましょうが、人がこれを乳だという。

この露を竹筒に受けて帰り、乳の先に塗りますト。
いくら出が悪かろうが、たちまちに良く出るようになるらしい。
そんな噂が立つようになった。

正介も榎の恵みを有り難く感じ入りまして。
己も竹筒に露を受けては、真与太郎に毎日これを飲ませてやる。

するト、噂というのはおかしなもので。
とかく尾ひれがつきやすい。
ある女がこの榎を信心したために。
乳の腫れ物が治ったトいう。

さらには真与太郎の元気なのを見て。
母無し子でも榎の乳で無病に育つらしいト。
方々に触れて回る者が出てまいります。

誰言うとなく「赤塚の乳房榎だ」「乳房榎だ」ト。
評判は日増しに高まっていきました。

そうこうするうちに月日は経ち。
真与太郎は五歳になりました。
田舎育ちで色黒で、言葉も在の訛になり。
正介をまことの親と信じて慕います。

ト、そんなある夏の昼下がりのこと。
通りがかりの小商人(こあきんど)体の男がひとり。
門番小屋に入って参りまして。

「ひええ、暑い暑い。爺さん、水を一杯くれねえか。歩き疲れて喉がカラカラだ」
「はいはい。只今あげましょう。お前さんも榎の乳をもらいに来ただかね」
「おお、こいつはありがてえ。そうさ、はるばる江戸は柳島から歩いてきたのさ。ああ、くたびれた」

柳島と聞いて正介は思わず首をすくめましたが。
脛に傷持つ身でございますので。
ただ黙って聞いておりましたが。

「お得意先のお内儀さんが、乳に腫れ物が出来て弱ってるのさ。旦那の話じゃ恐ろしい痛がりようで、昼夜なく転がりまわっているらしい」
「ほお。そんなに悪いかね、そのお内儀さんは」
「ああ。しかし、俺の考えじゃ、あれこそ因果応報だ」
「わしはよく知らねえが、あんまり病人を悪く言うもんでねえ」
「それはそうだが、しかし、もっぱらの評判だ。前の亭主を殺した仇とずるずるべったり、無邪気に子までもうけた報いだってな」

正介はその言葉にハッとして。

「ま、待て。お前さんの言う、その前の亭主というのは」
「爺さんは知るまいが、江戸に菱川重信という有名な画工の先生がいたのだ」
「菱川重信――」
「そうだ。お弟子の一人だった今の亭主が、邪魔になった先生を殺して、自分が跡を継いだともっぱらの噂だ」
「そ、それで、そのお内儀さんは」
「元はと言えば、二年ほど前に今の亭主の子を産んだのが始まりさ。だが、どういう訳だか乳が出ない。坊やはどんどん痩せ衰えってしまって、かわいそうについ先だって死んでしまったよ」
「し、死んだ」
「それから七日目のことだそうだ。お内儀の乳の上にぽっつりとおできができたのは。近所じゃ、前の亭主との間の子が祟っているんじゃないかって噂してる。行方知れずになったと言うが、大方あれもこっそり殺されたんじゃないかってね」

正介はしばらく黙って聞いておりましたが。
意を決したように、小商人をじっと見て言った。

「なに、殺されるもんか。この寺の榎の乳で大事に俺が育てたんだ。あんた、その浪江という人にそう伝えてやってくだせえ。真与太郎は正介が立派に育てているってよ」

小商人は困惑しながらも。
榎の乳を竹筒に受けて帰っていく。
それから数日が経ちました。

時しも、その日は七月十二日。
正介は真与太郎を戸口の外へ連れ出して。
精霊(しょうりょう)の迎え火を焚いていた。

「坊ちゃま。常日頃申し上げておりますが、わしはお前様のお父つぁんではねえ。お前様のお父つぁんは菱川重信というえらいお方で、悪い奴に騙されて殺されただ。その悪い奴がそのうちに、この家へ来ます。来るようにわしが仕向ただ」
「悪い奴がここへ何をしに来るんだい」
「それはね、坊ちゃま。わしとお前様の口を封じに来るに違いねえ。口封じというのは、つまり殺すことでがす」

真与太郎は父のことなど憶えておりませんから。
正介の言葉がまるで心に響きません。
正介はその様子を見て取るト。
脇に用意しておいた刀の鞘を払いまして。

「これはわしがお前様を連れてここへ来る時に、腰へ差してきたなまくら刀だ。こんなに錆びてしまっているが、これでも物の役には立つべい。悪い奴がやってきたら、坊ちゃま、この錆刀で脇腹をえぐっておやりなさい。わしがきっと助太刀をしますから」

ト、涙ながらに語りかけますので。
真与太郎も少しは神妙な表情になり。
じっと話を聞いておりました。

「さあ、仏壇へ線香を上げに戻りやしょう」

正介は真与太郎を促して小屋の中へ戻る。
ト、表の戸が不意にガタッと音を立てました。




「お精霊がやってきたよ」

無邪気なその声に振り返るト。
戸口に立っていたのは誰あろう。
噂をすれば影でございます。
磯貝浪江の姿があった。

「正介。おきせは死んだぞ」

稀代の悪人はどうしたことか。
眼を血走らせ、髪を振り乱し。
顔はやつれきって蒼白く。
無精髭が胡麻粒のように頬を這っている。

「竹六というのが来ただろう」

例の小商人だなトは見当が付きましたが。
正介はブルブル震えてしまって返答もできない。

「あれが持ち帰った榎の乳を腫物に塗るとな、たちまち痛みが引いた様子でおきせは静かになった。久しぶりに寝息を立てて、すやすやと眠ったかと思ったのも束の間だ。夜中にまたぞろ苦しみだした」

悪人は肩でゼイゼイ息をする。

「浴衣を汗でびっしょり濡らし、重信先生が恨めしそうに睨みつけると怯えている。そうして、痛む乳房の中にまるで何かが巣食っているようだと、こう言うのだ」

正介はゴクリと唾を呑んだ。

「まるで雀か何かがお腹の中から臓腑を嘴で突っつくようだと、こう言うのだ。ああ痛い、痛い。雀が来る、雀が来る。雀がたくさん飛んでくる。雀が乳の腫物を突っついている――」

真与太郎はじっと聞いている。

「そううわ言をしきりに言うから、浴衣を剥がして見てやると、乳がまるでびいどろのように腫れあがっている。肉が腐ってしまったのだろう。膿を出せば痛みが引くかもしれぬ。そう考えて脇差しを取り、左手で乳房をぐっと押さえ、小柄の先で乳に切り込むと――」

悪人は一瞬言葉を呑み、苦しそうな表情を浮かべますト。

「切り口から血の混じった膿がほとばしる。それとともに緑がかった異形の鳥が、ピチピチと群れをなして飛び出してくる。何十、いや何百羽とも思われる、無数の小鳥だ。それが天井まで飛んでいったかと思うと、急に戻ってきて俺の顔を一斉に突いてきた」

正介は真与太郎の肩を抱き寄せた。

「俺はそこらにあった箒を手にとって、無我夢中で払いのけたが、妖鳥どもめ、風のようにふわりふわりと飛び回って、叩けど叩けど手応えがない。そのうちに俺は気を失ってしまった。次に気づいた時には、傍らでおきせが死んでいる。乳からダラダラ膿が垂れている。小鳥の姿はどこにもない」

真与太郎はじっと黙って。
悪人の話を聞いておりましたが。

何かものに取り憑かれでもしたように。
幼い表情を歪ませますト。
不意にかの錆刀を拾い上げまして。
落ち着いた声で一言、こう発しました。

「お父つぁんの仇、おっ母さんの仇」

真与太郎は刀をスッと振り上げる。

正介はびっくりいたしまして。
頑是ない真与太郎をよく見ますト。
錆刀を握ったその小さき手に。
後ろから白く大きな手がそっと添えられていた。

真与太郎を背後から包み込むように。
父重信が介添しているのが見えました。

父と子はともに刀を振り下ろし。
肩から袈裟懸けに斬りつけますト。
続いて脇腹へ突き込み、グッとひとつえぐりました。

不意を突かれた悪人浪江は。
アッと声を上げてよろめきまして。
苦しみ、立ちすくみ、虚空を掴み。
バッタリとその場へ倒れ込んだ。

辺りはたちまち血の海となる。

親の仇の亡骸を、ただぼんやりと眺めている五歳の子に。
乱れ髪の痩せさらばえた亡霊が、いつまでもいつまでも寄り添っていたという。

そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。

(三遊亭圓朝作ノ落語「怪談乳房榎」ヨリ)

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