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鏡を握っていた女

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こんな話がございます。

加賀国は白山権現の麓に、鶴来(つるぎ)と申す集落がございます。
名酒の産地として誉れ高く、里には酒屋があまたございます。
元は剣(つるぎ)と称していたのを、殿様が「白鶴飛び来るが如し」と美酒の味わいを讃え、地名を改めさせたと伝わるほどで。

さて、この鶴来の里のとある酒屋に、男たちが数人集まって、世間話に花を咲かせておりました。
これは、そのうちの一人が語った話でございます。

享保十五、六年頃のことと申しますから、八代将軍吉宗公の治世のことでございます。
その頃、男は毎月、商売のために京へ通っておりました。
その途次でこんな話を聞いたと申します。

近江国、草津の宿の下女が、大津に住む男と恋仲となった。
草津と大津は、琵琶湖を挟んで対岸でございます。
迂回して陸路を行けば、実に六里。
本来ならば、たまの逢瀬を楽しむのにも一苦労のはずでございますが。

一旦恋心に火がつきますと、どんな苦難も乗り越えてしまうのが人の常で。
女は男が恋しさに、毎晩人目を忍んで通っていきました。
男の方でも、その殊勝な心ばえが可愛くてたまらない。
しばらくは、些事を忘れて浮世の夢に浸っておりましたが。

時というのは非情なものでございます。
毎晩、このように逢瀬を重ねておりますと、男の方では徐々に夢が現(うつつ)になる。
有り体に申しますト、慣れてしまったのでございますナ。
女が六里の道のりを夜毎に通ってくる健気さにも、以前ほど感じるものがなくなってきた。

それどころか、近頃では疎ましくさえ思うようになりまして。
六里先の対岸からはるばるやってくるのですから、どうしても常に女を優先せざるを得ない。
こちらも勤めびとですから、不都合な晩もあれば、疲れていることもある。
それを「また明晩」などと、むげに帰すわけにもいきません。
徐々にそれが重荷になる。

そうして、いつしか夢心地から覚めてみますト。
今までは恋の病に浮かされて、まるで気が回っておりませんでしたが。
どうにも解せない点がある。

自分も旅籠(はたご)勤めだからよく分かるが、ただでさえ繁華な東海道の宿場町。
その旅籠の下女が、どうして夜の限られた時分に、大津まで通ってこられるのだろう。
一日中、忙しく働いて、夜になれば気力も体力も使い果たしているはずだが。




対岸から矢橋の渡(やばせのわたり)を舟で通ってくるのだろうか。
だとしても、あんな夜更けに船頭が待っているものだろうか。
よしや舟で通ってくるにしても、あの短い時間でどうやってここまで渡ってくるのだろう。
そもそも、女はいつ寝ているのだろうか。

ト、考えれば考えるほど解せないことばかりでございます。
段々、男は気味が悪くなってきた。

「もしや、俺が愛しく思っていた女は、あやかしのたぐいなのではないか」

そう男が怯えたのも無理のない話で。
こんな当たり前の疑問を今まで抱かずに来たのは、やはり化生の者に憑かれていたためではないか。
ト、我知らずゾッと身震いいたしました。

ある日、草津の旅籠に出入りしている知り合いに、男はさり気なく尋ねてみた。

「特にどうということもございませんよ。夜は四ツ(十時)頃には仕事を仕舞って部屋に入り、朝は七ツ(四時)に起きて飯を炊く。どこにでもいそうな下女です。浮いた噂も聞きませんし、夜中に抜けだしているような素振りも見えませんがね」

男はそれを聞いて、ますます怪しく思います。

――チョット、一息つきまして。

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コメント

  1. 深川八幡太郎 より:

    毎晩往復百丁を泳ぎ切る情念。
    狐狸妖怪の類ではない生身の人間の話であればこそ、男がその執念を余計に恐れたのも頷けますな。
    ただ女が憐れではありますが。

    • onboumaru より:

      女自身がそれを情念や執念とは特に思っていないところに、男はなにか尋常でないものを感じて恐怖したのでしょうナ。
      それだけに女がいっそう哀れです。
      恐怖と悲哀は紙一重といったところでございましょうか。