月岡芳年 ―血みどろ絵師は「生」を見つめた―

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TSUKIOKA YOSHITOSHI

「血みどろ」の時代

月岡芳年(つきおか よしとし)は「血みどろ」の絵師である。

妖と奇の巨人、歌川国芳に師事し、兄弟子に落合芳幾、河鍋暁斎らがいた。
一魁斎、玉桜楼などと号したが、最後は大蘇芳年と名乗っている。

出世作は、慶応二年刊行の「英名二十八衆句」、同四年すなわち明治元年の「魁題百撰相」。
両作の成功により、「血まみれ芳年」の異名をとった。

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痴情のもつれによる殺人を報じた郵便報知新聞の記事より。
芳年の挿絵が今で言う報道写真の役割を果たした。

めくるめく生首、血しぶき、死に顔、鮮血のオンパレード。
残虐とグロテスク、怪奇、猟奇に満ちている。
「無惨絵」「残酷絵」「血みどろ絵」などと称される新ジャンルを切り拓いた。

同じく郵便報知新聞に提供した挿絵。
追い剥ぎに遭った女二人が、狼に食われた事件を描いたもの。

だが、その視点は決して下世話な好奇によるものではない。

時代は新政府軍と旧幕府軍が決死の戦いを繰り広げた激動のさなか。
芳年と同じ世代の若者たちが、それぞれの信念を貫いて我が身と命をなげうった。
まさに「血みどろ」の時代であった。

かの彰義隊の戦いの際、上野の戦場をみずから写生して回ったという芳年。
若者たちの無残な死に様に、かえって強烈な生の有様を見ていたのではないだろうか。

芳年を愛した文学者たち

江戸川乱歩は、芳年の画風を、自身にとっての「幻想の国の残虐の部屋」と評した。

また「写実でないからこそレアルである」「本当の『恐怖』が、そして『美』がある」と讃えている(随筆「残虐への郷愁」より)。

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「英名二十八衆句 直助権兵衛」
乱歩が「芳年構図の圧巻」と激賞した

三島由紀夫は、画集「血の晩餐 大蘇芳年の芸術」に序文を寄せている。

「大蘇芳年の飽くなき血の嗜慾(中略)には、幕末動乱期を生き抜いてきた人間に投影した、苛烈な時代が物語られてゐる」。

その三島自身も、最期は無惨絵さながらに、腹を割き、血みどろになって死んだ。

出世作「英名二十八衆句」

兄弟子である落合芳幾との共作で、慶応二年から三年にかけて刊行。

歌舞伎の残虐場面ばかりを集めて題材としたもので、各自が14枚ずつ担当している。

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「英名二十八衆句 稲田九蔵新助」

「英名二十八衆句 笠森お仙」

「英名二十八衆句 遠城喜八郎」

「英名二十八衆句 古手屋八郎兵衛」

上野戦争と「魁題百撰相」

慶応四年五月、彰義隊を中心とした旧幕府軍は、上野山(現在の上野公園および寛永寺)で新政府軍と戦い、破れ散った。

連作「魁題百撰相」(かいだいひゃくせんそう)は、歴史上の戦いを題材とした体裁を取りつつ、上野戦争における若き幕臣たちの敗死を描いている。

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「魁題百撰相 駒木根八兵衛」
島原の乱で幕府軍の総大将を撃ち取った駒木根八兵衛。
その姿に、官軍に立ち向かった彰義隊士の面影を重ね合わせている。

「魁題百撰相 佐久間大学」
画題は今川軍に討ち取られた信長の家臣だが、
着物の家紋が彰義隊士の相馬翁助であることを暗示している

「魁題百撰相 鈴木孫市」

「魁題百撰相 小寺相模」

「魁題百撰相 森力丸」

「魁題百撰相 鳥居彦右ヱ門元忠」

「魁題百撰相 辻弥兵衛盛昌」

1.芳年と「血みどろ絵」
2.故事を描く「大日本名将鑑」「月百姿」
3.余苦在話ト芳年

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