どこまでお話しましたか。
そうそう、一人で遊んでいた餓鬼大将の太吉のもとへ、何やら白い塊が宙を舞うように近づいてきたところまでで――。
「雪女ッ――」
目を凝らしてよく見ると、白帷子に身を包んだ色白の女が、長い黒髪を靡かせて、こちらへ向かって歩いてきます。
手には、これまた透き通るように白い、一頭のべごを連れている。
スラリと背の高い白い女と、妙におとなしい白い牛――。
女は右手にべごの鼻先を持ち、左手には桶を持っている。
太吉は逃げ出そうとしますが、足が動かない。
そればかりか、手も顔も動かないし、声も出ない。
太吉は凍りついたような顔をして、黙って立っておりますト。
やがて、べごを連れた女が、太吉の目の前まで近づいて止まる。
太吉は固まったまま黙っている。
女もまた黙っている。
風が雪の粉を舞い上げるように、びゅーっと吹きます。
女は太吉をじっと見ている。
太吉も女をじっと見ている。
イヤそれは、太吉はそうするよりほかなかったもので。
風が舞い立つたびに、女の白帷子からぷーんと甘い香りが漂ってくるが。
子どもの太吉には、それが懐かしい乳の匂いのように感じます。
――おっ母なら、いいのに。
ト、一縷の望みも掛けたくなる。
女はいつまでも黙って見ている。
太吉は恐ろしくて恐ろしくて、冷や汗が出る思いがしましたが。
その汗が、まるで氷のように背筋をすーっと滑っていきました。
ト、女が不意に太吉に向かって、
「来い。来い、来い。来い」
とでも言うように、手招きをした。
「行かねえ。行かねえ、行かねえ。行かねえ」
太吉は呪文のように、心のなかで必死に唱え続けますが。
ひとりでに足が女の方へ引っ張られていく。
ただでさえ目の前にいる女と、もう鼻の先まで近づきました。
女はそっと太吉の手を握ります。
柔らかいが、氷のように冷たい手です。
途端に、すーっと爪先から頭のてっぺんまで、冷気が走り抜けました。
女は太吉の手にべごの手綱を握らせまして。
自分は左手に桶を持って踵を返す。
雪が宙を舞うように、軽やかにふわーり、ふわりと歩いていくト。
木の枝に覆いかぶさっていた雪をドサッと桶に落としました。
そして太吉の前に戻ってきますト。
べごの前に桶を置きました。
べごは待っていたかのように、ぺろっぺろっと舌を巻く。
たちまち雪を平らげました。
べごがもぞもぞとし始める。
女はべごの腹の下にしゃがみこむと、乳を絞り始めました。
キュッキュッ、キュッキュッ――。
雪を腹いっぱい食べたせいか、乳がよく出ること、出ること。
みるみるうちに、桶いっぱいに溜まりました。
太吉はその様を微動だにせず見守っておりましたが。
女は一度、太吉の方を見てにこっと笑みを浮かべますト。
桶いっぱいの乳を手ですくって、太吉の顔の前に差し出しました。
まるで母が赤子に乳をふくませるように、女の顔が「飲め、飲め」と言っている。
太吉はやはり恐ろしいので、「飲まねえ、飲まねえ」と歯を食いしばる。
女の妙に優しい顔立ちが、どんどん目の前に近づいてきます。
ついに目と目が間近に相対した時――。
突然、太吉の顔に乳がぶっかけられた。
バシャーンッ。
ト、太吉は気を失ってしまいました。
次に気がついた時には、冷たい雪野原にひとり大の字になって寝ておりました。
風もなく、どこまでも白い幕を張ったような、広い野原にただ一人。
月の光が太吉を照らしておりました。
女もべごももういない。
「太吉ィ―ッ、太吉ィ―ッ」
遠くで太吉を呼ぶ声がします。
誰の声だか分かるような気はするが、もう誰の声でもいいような気がした。
「大人の言うこと聞かねえと、雪女に魂抜かれると言っただろう」
ふと目の前に、こちらを覗き込む大人たちの顔が見えましたが。
太吉はただ一言、
「雪女が怖くてソリが滑れるかよ」
ト、毒づいたそうで。
憎まれっ子世にはばかるとはまさにこのこと――。
ト、申したいところではございますが。
その実、太吉はすっかり怯えてしまっておりまして。
しばらくは家に閉じこもり、部屋の片隅で何かぶつぶつ言っておりましたが。
春になり、雪があらかた溶けた頃、ふっと行方が知れなくなりまして。
その後、二度と戻ってこなかったそう。
「おっ母のところへ行ったのだろう」
ト、心ない大人たちはそう噂し合ったという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(出羽ノ民話ヨリ)