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戸田の渡し お紺殺し

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どこまでお話しましたか。
そうそう、病に侵されたお紺を、次郎兵衛が無慈悲に捨てて出ていったところまでで――。

お紺の家を出ていった次郎兵衛ですが、かと言って他に行く宛もない。
雪降る中を走っているうちに、頭も冷えたものと見えまして。
つくづく考えてみましたことには。

「このまま博奕を続けていると、いずれ俺もあんな風に堕ちるかもしれねえ。まだ路銀が残っているうちに、国へ帰って真人間になろう」

ト、自分一人で改心いたしまして、下野は佐野の在、舟橋村へ帰って行きました。
両親はすでに世を去っておりましたが、叔父が一人、今でも暮らしておりまして。
叔父にしても、放蕩者とはいえ甥には違いありませんから。
機織物の仲買人に仕立て、食っていけるようにしてやりました。

それから次郎兵衛は心を入れ替えまして、まじめに働きます。
商売が軌道に乗りますと、嫁取りの話も自然に出る。
同じ村のおわかという娘を嫁にもらって、より一層仕事に精を出しますト。
徐々に江戸にも取引先が出来るようになり、暮らし向きも豊かになってまいりました。

やがて夫婦の間に男の子が生まれまして、名を次郎吉と名づけます。
蝶よ花よと育てているうちに、夢のように月日は流れました。

次郎吉が五つになった年の暮れのこと。
次郎兵衛は江戸へ掛取りに出向きました。
用を終えて佐野へ帰ろうと、板橋を過ぎ、志村の坂へ差し掛かった時――。

「お願いでございます」

ト、唐突に脇から現れた者がある。
髪を振り乱し、襤褸をまとった女乞食でございます。
男も女も相手が誰だか分かっていない。

「お恵みをいただきとう存じます。お願いでございます」
「悪いが、姐さん。今、手持ちの金がなくてね」
「お願いでございます。お恵みを――」

ト、次郎兵衛の笠の中をひょいと覗いた女が「アッ」と声を上げた。

「お前、次郎兵衛だなッ」
「お、お紺。お前、まだ生きていたのか」

思わず漏れでた次郎兵衛の本音に、お紺がいきり立って胸ぐらを掴む。

「お前に会わずにどうして死ねる。こうして再び遭ったからには、二度とこの手を放さないから、そう思いな」
「待て、お前はそう火が着きやすいから困る。俺を不人情な奴だと思っているんだろう」

ト、次郎兵衛はとっさに取り繕った。

「お前が不人情でなければ、誰が不人情なんだ」
「今から話すから、まあ待て。俺はな、何もお前を捨てたわけじゃない。いつまでも博奕をしていても、お前の病を治してやることも出来ない。そればかりか、食わせてやることも出来ないだろう。それで一旦、故郷の佐野へ帰り、親類縁者に頭を下げて、商売を始めたのもすべてお前のためだった。ようやくまとまった金も出来て、お前を佐野へ呼び寄せようと江戸へ帰ってみると、どうだ。お前のほうこそ、俺から逃げたんじゃないか」

お紺の方でも、これほど情ある言葉をかけられたことは、久しくございませんでしたから。
次郎兵衛のその場しのぎの嘘に、ころりと騙されてしまいまして。
爛れた顔を両手で覆いますと、途端に泣きじゃくってしまいました。

「それでも、お前さん。十年の間にいい女(ひと)ができただろう」
「馬鹿を言え。俺がお前をどれだけ探しまわったか、知らないからそんなことが言えるのだ」

ト、次郎兵衛が追い打ちをかけるものですから、たまりません。
すっかりお紺は情にほだされてしまった。

「ともかく、ここで出会ったのもやはり因縁だ」
ト、次郎兵衛が言ったのは、これはいくらか本心で。

「今夜は二人で蕨に泊まり、明日は佐野へ帰るとしよう」
ト、そっとお紺の手を握る。

お紺はすでにのぼせ上がっております。
啖呵を切りはしたものの、今では自分の身なりが穴に入りたいほど恥ずかしく。
次郎兵衛に手を引かれて、しずしずと後をついていきますト。

二人は戸田川の渡し場へやってまいりました。
夕暮れ時の川岸に、チラチラと雪が舞い始める。

「誤解をしてもらっちゃ困るがな、お紺。お前はこうして苦労をしてきたから、どうしても体が土埃で汚れている。宿に上がるのに不都合があるといけないから、ここで顔だけでも洗っていったらどうだろう」

ト、優しく次郎兵衛が語りかけますト。
お紺もそこは女でございますから。




「そうだね」

ト、小さく頷きますと、みずから川辺の桟橋へ歩いて行きました。
冬の夕暮れのこととて、辺りに人影はありません。
船頭も向こう岸の小屋に入って出てこない。
水がドーッ、ドーッと音を立てて流れます。

「俺が腰帯を掴まえていてやろう」

次郎兵衛がお紺の腰に手をかける。
お紺は涙をにじませる。
その涙をごまかすつもりか、はあっと両手に息を吹きかけた。

「冷たいねえ」
「雪が降っているからな」
「お前さんにこうして寄り添ってもらうのも、十年ぶりなんだねえ」
「そうだな。――さあ、早く洗いねぇ」
「お前さんが家を出た日も、雪が降っていたっけねえ」
「そうだったな。――さあ、早く洗いねぇ」
「なんだか川に落ちてしまいそうで、うまく水が掬えないよ」
「俺が支えているから大丈夫だ。――さあ、早く洗いねぇ」

お紺はようやく体を前に倒して、川面を覗き込みました。
そして、両手を水に差し入れた時――。

今だとばかりに次郎兵衛は、握っていた腰帯を放しますと、背後からドンとお紺を蹴飛ばした。
バシャーンと激しく水しぶきを上げて、お紺が川に落ちました。

バシャバシャと女は死にもの狂いでもがいている。
なんとか水面に顔を出し、桟橋に手を掛けたのを、非情な次郎兵衛が踏みつける。
再び女は川に沈む。バシャバシャと狂ったようにもがいている。
次郎兵衛は傍らに埋められていた杭を引き抜くと、お紺の頭をめがけてドーンと打ち込んだ。

途端に女が静かになりました。
泡をぷくぷく立てながら、ゆっくり川底に沈んでいく。

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏――。成仏しろよ。南無阿弥陀仏」

次郎兵衛は来た道を引き返して板橋宿へ戻って行きました。
そうして何食わぬ顔で、馴染みの旅籠に駆け込みましたが。

「ちょっと、待ちなよ。姐さん」

ト、次郎兵衛は妙に思って、部屋に入ってきた女中に声を掛けた。

「私はいつもの通り、一人だよ。布団は二組も敷かなくていい」

そう言われて、女中の方がかえって妙な顔をします。

「でも、旦那様がさきほどお風呂に入られた時に、三十すぎの女の方がいらっしゃいまして、佐野の旦那の部屋に泊まるからと――」
「待て。どんな女だ」
「こう言ってはなんですが、ちょっとお見苦しい身なりの方に見えましたが」

ト、女中が言いにくそうにする。

次郎兵衛は慌てて宿を出る。
戸田の渡しに差し掛かる。
ト、そこでは「女乞食の死骸が流れ着いた」と大騒ぎで。

急ぎ佐野の家に帰ると、今度は家内が騒がしい。
可愛い倅の次郎吉が、疱瘡にかかって熱を出したという。

幸い一命をとりとめましたが、玉のような愛息が、見るに堪えないあばた面になってしまった。

この次郎吉が成人し、名を次郎左衛門と改めるのでございますが。
後にこのあばた面がもとで遊女八つ橋を斬り殺し、さらに百人斬りの凶行に及ぶという。

そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。

(講談「吉原百人斬り」ヨリ。歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」、江戸落語「戸田の渡し(お紺殺し)」、上方落語「怪談市川堤」等、翻案多数アリ)

コメント

  1. 深川八幡太郎 より:

    能力もその罪も当世限りの個で完結することが当たり前の昨今で、業が代を跨いで続いていくというこのお話は、また別の趣で恐怖のタネになります。

    • onboumaru より:

      江戸怪談の主軸はやはり、業と因果のようでございます。
      これは江戸初期の説教僧が、布教のため積極的に怪談を利用したことも関係しているようです。
      「親の因果が子に報い……」などと申しますが、これも「悪業の報いは一代では終わらないと考えなさい」との教訓が含まれているものと思われます。

  2. ハリオ より:

    失礼します。 吉原百人斬り お紺殺し すべて実話でしょうか? 講談で怪談というものもすべて実話でしょうか?

    • 砂村隠亡丸 より:

      コメントありがとうございます。
      佐野次郎左衛門という人物が吉原で殺傷事件を起こしたのは歴史的事実ですが、その父が殺した女の祟りで息子が痘痕面になったというのは後世の創作です。