こんな話がございます。
清国の話でございます。
王子服と申す、将来を嘱望された若者がございました。
父はなく、母一人子一人という家で、溺愛されて暮らしております。
が、優秀な息子なだけに、母もそろそろ嫁を探してやらねばならない。
ある年の元宵節――我が国で言う小正月ですナ。
子服は母方の従兄である呉と申す男に誘われまして。
村はずれまで色とりどりの灯籠を見物しに出かけました。
若い男女が大勢出てまいりましたその中に――。
はっとするような美しい娘が一人おりました。
下女を一人伴って、梅の枝を手にもてあそびながら歩いております。
顔いっぱいにあどけない笑みを湛えている姿は、まさに天女のよう。
子服は思わず見とれてしまいまして、呆然と立ち尽くしておりましたが。
不意に聞こえてきましたのは、その娘の乾いた笑い声で。
「あ、あの人――。あんなにじっとこっちを見て――。ハハハハハ――、ハハハハハ――」
ト、腹をよじらせて笑っている。
普通なら、からかわれたと思って、腹をたてるか肩を落とすかのどちらかですが。
そこが良家のご子息はやはり違うようでございます。
子服はその様を見て、途端に恋に堕ちてしまった。
娘が何気なく投げ捨てていった梅の枝を、大事に拾い上げて持ち帰りました。
それからは寝ても覚めても、あの娘のことばかりを考えている。
やがてすっかり煩い付いて、寝こむようにまでなってしまった。
その枕の下には、萎れかかった一枝の梅の花。
時々、枕を上げて取り出してみては、慈しむように撫でております。
そこへ、叔母から従弟の子服の様子を聞いた呉が、見舞いにやってまいりました。
子服は涙を浮かべて、呉を見上げる。
促されて、事の次第を語りますト。
「お前も見かけによらず、隅に置けない奴だ。俺はちっとも気が付かなかった。まあ、そんなことならわけはない。俺が探し出してきてやるから安心しろ。何なら嫁に来てくれるように頼んできてやろう」
ト、呉が胸を張ったのは、従弟を元気づけるための安請け合いでございましたが。
子服のほうでは、もう娘が自分のものになるかのように、大喜びをいたしまして。
それからは、食も進み、病もだいぶ回復してまいりました。
数日後。
再び呉がやってまいりました。
が、娘を連れておりません。
子服はやや怪訝そうに、
「あの子はどうなった」
ト、尋ねますと、その時初めて呉も約束を思い出しまして、
「ああ、あの子か。素性はわかったよ。聞いて驚くな。実は、あれは俺らの従妹なんだ。うちの父とお前の母から見ると、生き別れた長姉の娘にあたるわけだ」
呉は子服にその娘を忘れさせようとして、即座に嘘を並べ立てましたが。
子服は、もうあの娘が自分の妻になるものと思い込んでおりましたから。
親族だったと聞いて、がっくりと肩を落としました。
それを見て、呉が慌てて取り繕う。
「いや、しかし、従妹だからと必ず結婚できないわけじゃない。じっくりと手段を講じてみようじゃないか」
たちまち子服の目に輝きが戻ります。
呉は内心、余計なことを言ったと後悔しましたが。
子服に問いつめられるまま、
「西南三十里の山中に住んでいる」
ト、嘘に嘘を重ねることになった。
それから子服はますます元気を取り戻しまして。
呉が縁談を上手くまとめてきてくれるのを、今日か明日かと待ち受けている。
しかし、呉は一向に姿を表しません。
子服はもう待ちきれなくなりまして。
その西南三十里にあるという山中に向け、一人で家を出て行きました。
山道を歩いていきますと、徐々に人の気配が消えていきます。
鬱蒼と茂った森に、湿った冷気が肌を刺します。
やがて、小鳥の泣き声さえ聞こえなくなってきた時――。
茂みの向こうに隠れ里のような集落が見えてきた。
中に一軒、とりわけ趣きのある屋敷がございました。
桃や杏の花に囲まれて、鳥が周りを飛び交います。
竹垣の外から背伸びをして中を覗きますト。
聞こえてきたのは、忘れもしないあの笑い声。
「ハハハハハ、ハハハハハ――。蝶が飛んでいる――」
子服はそれこそ天にも登るような心地で、うっとりと眺めておりましたが。
どれだけの時が経ったのか、不意に老婆が現れまして申します。
右目の上に小さな赤いあざがある。
「どなた様か存じませんが、朝からずっと門の外にいらっしゃるのは、一体どんなご用件で」
それで子服も我に返りまして、居住まいを正して礼をしました。
「王子服と申すものです。従妹に会いに参りました」
「従妹――と申しますと」
子服は返答に詰まってしまった。
そう言えばまだ名前も知りません。
それを見て、老婆は子供の相手をするように笑いました。
「まあ、いいでしょう。せっかくだから、お入りなさい。もう遅いですから、泊めないわけにもまいりますまい」
部屋に通されて、子服は改めて老婆に事の次第を話しました。
と、老婆は大変驚いた様子で。
「もしや、あなたの母方は、姓を呉と申すのではございませんか」
「そうです。その従兄と申すのも母方ですから、やはり呉姓です」
「なんと。それではあなたは私の妹の子、つまり甥ではありませんか」
「そうです。従兄からそのように聞いております」
これを機に、老婆も子服の言葉を信用しまして、件の笑い上戸の娘を呼び寄せます。
――チョット、一息つきまして。
コメント
確かに笑ったまま臨終の時を迎えることができれば、生きている間のありとあらゆる事どもは些事に思えましょうな。
逆につまらぬことで眉根を顰めて四角四面に語ろうとする今時の世の中では、何もかもが悩みの種にもなってしまうような気がいたします。
そうですね。
そう考えられれば、この話も不気味に感じずにすみます。
笑い続ける女を不気味に感じる方に、心の闇があるのかもしれません。