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女侠と乳飲み子

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どこまでお話しましたか。
そうそう、都に出てきた崔慎思が、借り家の美しい女主人に、詩を贈ろうと決意したところまでで――。

この詩というのが、いかなるものであったのか。
わたくしは浅学ですからよくは知りませんが。
ともかく、その内容はと申しますト。
これがうぶな四十男にはありがちなもので。

思いの丈から書き初めて、突然、求婚をいたしました。

相手もさぞかし、困惑したことだろうとは思いますが。
そこは大きな屋敷の女主人でございますから。
いたって落ち着いた内容の返事を送ってよこしました。

これまた詩篇でございましたが、その内容はやんわりト断りを入れたもので。
ただ、末尾にこのような文言が添えられておりましたのは、少々妙ではございました。

「我非仕人、与君不敵、不可為他時恨也」

――私は人に仕えることが出来るような女ではございません。あなたのような方にはふさわしくないと存じます。また、後日に禍根を残すわけにもまいりません。

大方このような意味ではございますが、後日の禍根という一句の意味が崔には全く分からない。

ただ、人に仕えることが出来ないというのは、屋敷の主人としてもっともだと思いましたので。
正式な妻でなくても構わない、ただ想いを受け入れてほしいト、再び文を送りますト。
驚いたことに、妾なら構わないトの返事が送られてまいりました。

こうして、崔は天にも登るような心地で、母屋の玄関を入って行きました。

それから二年間、二人は仲睦まじく暮らしましたが。
一つ妙なことには、その間、女は一切自身の姓を明かしません。
それでも崔は、女を心のなかで本当の妻と思い、大事にいたしておりました。

そのうちに二人の間に女の子がひとり産まれまして。
崔は遅くに出来た子が可愛くてなりません。
赤子というだけに、ほのかに赤い顔をしている。
それが、その頃また咲き出した海棠の花を思わせます。

そうしてみると、赤子はどことなく妻に似ております。
これは美人に育つに違いないト、崔は有頂天になっている。

が、妻はどこか浮かない顔をしております。
子育てもするにはしますが、妙によそよそしい嫌いがある。

やがて、その不審が疑惑に転じる時がやってまいります。

ある晩、崔はいつものように戸を閉め、帳をおろして寝台に入りました。
妻を抱き寄せると、甘い香りが鼻のあたりに漂います。
いつしか崔は眠りに落ちておりました。

やがて、再び目を覚ますと、その腕の中に妻がいない。
ハッとして起き上がると、部屋のどこにもおりません。
暗闇の中、隣の寝台から赤子の寝息が聞こえるばかり。

その愛らしい寝顔を見ているうちに、崔は我知らず虚しさを覚えてしまった。

妻は自分に仕えることは出来ないと、正式な婚姻を最後まで拒んだ。
それどころか、姓すら明かしてくれないではないか。
私に何を求めているのかは分からないが、情が通っていないことだけは確かだろう。

――ト、母に愛情を傾けてもらえない我が子の寝顔を見るにつけ、そう思うのでございました。

崔ははっきりと妻に疑惑を抱くようになりました。
どこかに男がいるに違いない。
その男とともに、きっと私を何かの罠に嵌めようとしているのだ。
子までなした仲というのに――いや、もしや、そのために子をなしたのではないか。

翌晩も、崔はいつもと変わらぬ手順で寝台に入ります。
妻を抱き寄せると、甘い花の香が漂います。




崔は眠りに落ちたふりをして様子をうかがっている。
ト、夜更けに妻が起きだして、家を出ていきます。
小さな寝台にひとり寝ている我が子には目もくれず――。

崔も進士でございます。
人並み以上に自尊心は持っている。
毎晩、同じことが一年にも渡って続きますと、もう耐えられなくなりまして。
妻が出ていった後、ガバッと起き上がると、庭に出て帰りを待ちました。

もし姦夫の存在を認めたならば、娘を連れて家を出て行くつもりです。

夜空には皓々と照る白い月。
庭には満開に咲いた薄紅色の海棠の花。
妻は帰ってまいりません。
徐々に月が傾いて、ついうつらうつらとし始めた時――。

キィーッと門が開く音が聞こえて、崔はハッと目を覚ます。
月光を背に受けて向かってくる影。
それは、紛うことなき我が妻です。

ト、その手に何か毬のようなものが提げられているのが見えました。
もう一方の手には短刀が握られている。

妻は崔の姿を認めても、動じることなく淡々と向かってきます。
徐々に近づいてみますと、毬のようなもの――それは人の首だと知れました。

「私の父は無実の罪によって郡守に殺されました。私は仇を討つために郡城に忍びこみ、その機を待って数年を送りましたが、今日ようやく恨みを晴らすことが出来ました。そのうちの数年間をあなたと共に過ごし、子までもうけたのは望外の幸せでございます。しかし、もはやここに留まるわけにはまいりません。屋敷も奉公人もあなたにお任せいたします。子どもはどうかあなたが育ててやってください」

女はそう言い残すと、仇の首を革袋に押し込み、屋敷を去って行きました。
月明かりが、薄くれないの花影を、女の後ろ姿に落とします。

崔は呆気にとられて見送っている。
ト、思い出したように、女がきびすを返して戻ってまいりました。

「娘に乳をやるのを忘れておりました」

そう言って、寝室に一人で入っていきましたが、しばらくして出てまいりますト。

「たくさん飲ませました。朝まで静かに眠るでしょう」

女は再び花影の中へと去っていく。

すっかり妻の姿が見えなくなりますト。
崔はがっくりと肩を落として寝室に戻りました。
さて、これからどうしたものかと、ふと我が娘に目をやりますト――。

赤子が白目を剥いている。
首がガクッとおかしな方向に曲がっている。
慌てて崔は抱き上げてみましたが。
すでに息をしておりません。

後の禍根を絶つためであろう、男女の情も親子の情も断ち切ったのだ。

ト、世間ではかの女を、親の仇討ちに徹した女侠として褒め称えましたが。
一人取り残された崔慎思は、とてもそんな風に受け止めることは出来ませんでした。

それ以来、薄紅色に染まった海棠の花が咲きますたびに。
妻の最後の後ろ姿――。
赤子の哀れな死に顔――。

どうしてもそれらが、瞼に浮かんでしまいまして。
崔はひとり、狂わんばかりに泣いたという。

そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。

(唐代ノ伝奇小説「原化記」中ノ一遍『崔慎思』ヨリ)

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コメント

  1. 深川八幡太郎 より:

    女侠がどのような策略でもって仇敵に忍び寄っていったのか気になりますな。下世話な興味ですが。

    • onboumaru より:

      そこを一切明かさないまま、「後の禍根」だけしっかり断って去っていったところが、世間の人には「女侠」に見えたんでしょうナ。