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袈裟と盛遠 文覚発心譚

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どこまでお話しましたか。
そうそう、源渡の妻、袈裟に横恋慕した盛遠が、母の衣川を脅して逢瀬を確約させるところまでで――。

盛遠が帰っていくト、衣川は途方に暮れて、ただただ涙を流しました。
あの様子では、言うことを聞かなければ何をしでかすか分からない。
さりとて、屈して娘を逢わせれば、婿の渡に合わせる顔がない。

悩みに悩んだ末に、衣川は袈裟のもとへ文を書いて送りました。

「近頃は風邪心地で伏しております。久しぶりに母娘水入らずで話したいこともありますので、ただ一人で忍んでおわしませ」

袈裟は文を受け取りますト、独り身の母の心細さに胸を打たれる気持ちがいたしまして。
言われたとおり、一人で密かに母の家を訪ねていきました。

母はまじまじと娘の顔を見たかと思うト、はらはらと涙を落とす。
手箱から小刀を取り出して娘に示します。
袈裟は何事かト驚いて、母を見る。
衣川は盛遠が訪ねてきた一件を娘に話しました。

「盛遠に理不尽に殺されるくらいなら、お前の手にかかって死にたい。さあ」

ト、母は娘の目の前に刀をぐっと差し出す。
袈裟はあまりのことに言葉を失いますが。
ともかくもト、一旦母に刀を押し返す。

「命あっての物種でございます。このことは何卒、私にお任せくださいませ」

ト、毅然と答えはいたしましたが。
まだ十六の若妻です。
夫、渡のことを考えるト、どうしたものか分からなくなる。

夜。
盛遠は、ひとり浮かれた様子で鬢を掻き、髭を撫でながら、やってくる。
袈裟は、ト申しますト。
荒武者に求められるまま、応じました。
そして夜は更け、鳥啼く時刻が近づいてくる。

「それでは、これでお暇いたします」

袈裟は床から己の衣に手を伸ばす。

「待て」

盛遠のごつごつとした手が、女の細い腕をとらえました。

「俺も弓矢を取る身だ。心を許さぬ女をただで返して、ひとり恋患うような習いはない。俺の妻になれ。さもなくば、こうするまでだ」

ト、突然立ち上がったかと思うト、太刀を手に取り鞘を払う。
裸の男が刀を抜いて目の前に仁王立ちしている。
袈裟の脳裏に、我が身の可愛さ、母への孝心、そして夫への義理が瞬時に駆け巡りました。

「何をおっしゃるのです。夜明けに暇を乞うのは、女のたしなみではございませんか」
「なんだと」
「あなたは私の心が分からないから、そんなことをおっしゃるのです。私は十四の年に渡の妻となり、はや三年でございます。その間、折々につけて不満ばかりが溜まり、もはや家を出ようと考えていたのでございます。とは言え、母の仰せに背くわけにもいかず、思い悩んでいたところへ、あなたが現れたのではございませんか」

盛遠は刀を握ったまま、聞いている。
袈裟は額に汗の滴るのを感じながら、落ち着いて先を続けます。

「渡を殺してください」

さすがにその一言に、盛遠も驚いた。

「殺せだと」
「そうです。私を本当に思うのなら、殺してください。承知してくださらぬのなら、私は二度とあなたと会いはいたしません」
「承知しないことがあるものか。お前さえ良ければ、この刀でひと思いにやってやる」

心なしか盛遠の声が震えているようにも聞こえます。

「きっと承知するのですね。では、こうしてください。私は渡の待つ家へ先に行って支度をします。夜、渡に沐浴をさせた後に、酒を酔うほど飲ませます。渡は酒に弱いですから、正体なく眠ってしまうでしょう。あなたは寝間に忍び込み、濡れた髪を手探りに捜して首を斬るのです」

生唾を飲み込む音がくっと鳴った。




「分かった」

ト盛遠が答えるト、袈裟は悠々と衣を着始める。
男が黙って見守っているのが、背中にひしひしと感じられます。
袈裟は渡との住まいへ戻っていきました。

その日、渡が帰ると、袈裟は、

「母が急病のため、見舞いに行っておりましたが、もうすっかり良くなりました。お酒を用意しましたので、今宵は祝いの宴にお付き合いください」

ト、夫に言う。

愛しい妻との久しぶりの酒盛りに、渡はつい前後不覚に酔いました。
袈裟は時を見計らい、渡を寝間へ連れて行って奥の方へ寝かせました。

一方の盛遠は――。

袈裟に指示されたとおり、夜半を待って、渡の家の寝間に忍び込む。
暗闇の中を這って進みます。

ト、確かに濡れた髪が手に触れた。
烏帽子が傍らに転がっている。
頭を探っていくと、男の髻。
これぞ、渡に違いない。

気づかれてはならぬ。
早くしろと袈裟が言っている。

そんな気がして、震える手で刀を抜きますト。
ヤッと一刀のもとに、首を斬り落とした。
死骸の衣から袖を引きちぎり、首を包んで駆け足で家に帰る。

盛遠は家に着くと、首を投げ出して、横になりました。

「やった。ついにやった。長年の思いを今、遂げたのだ――」

よほど気分が高まっているのか、盛遠はなかなか寝付けません。

そうしているうちに朝が来る。
郎党がやってきて、盛遠に告げる。

「左衛門尉殿の屋敷にて、変事があったとのことにござりまする」
「なんだと」

ト、盛遠は一応驚いてみせましたが、心の中ではほくそ笑んでいる。
渡の死が公になれば、大手を振って袈裟を我がものに出来る。
そう思っているところへ――。

「数日の間、ご面会を差し控えさせていただきたいと、左衛門尉殿が――」
「ま、待て。左衛門尉が――」

呆然としている主人をよそ目に、郎党は去っていく。
盛遠は明け方に放り投げた首に慌てて駆け寄り、包みを開ける。

ト、そこに現れたのは、男髪に結った袈裟の首。
その死に顔は、固く瞼を閉じておりました――。

三年の恋が夢のようにはかなくなったのを知りまして。
盛遠は己の浅ましさに菩提心を発し、出家します。
盛阿弥陀仏(じょうあみだぶつ)と名乗り、数年の荒行を経て、文覚と名を改めました。

後にこの文覚は、源頼朝の腹心の一人となりまして。
平氏討伐への蜂起を進言するなど、歴史に名を刻む活躍をいたしますが。
その出世の端緒には、一人の女の覚悟の死があったという。

そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。

(「源平盛衰記」第十九巻『文覚発心附東帰節女事』ヨリ。芥川龍之介「袈裟と盛遠」ノ原拠ナリ)

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