どこまでお話しましたか。
そうそう、白河天皇の皇子誕生のために祈祷をした頼豪が、約束を反故にされて怨念を抱くところまでで――。
頼豪が三井寺へ帰って、しばらくの後。
天皇の耳に穏やかならぬ噂が聞こえてまいりました。
いまや頼豪は、飲食を断って道場に入り。
己が餓死したうえで、皇子を冥土へ道連れにするト。
そう息巻いているトのことでございます。
天皇は頼豪の憤怒に心をお患いになりまして。
日々の朝政もまるで手につきません。
当時、美作守であった大江匡房(おおえのまさふさ)が、頼豪の旧知でございましたので。
これを召し出し、三井寺へ様子を見に行くよう命じられました。
勅命を受けて匡房が、三井寺の頼豪の坊へ赴きますト。
戸は全て閉じられておりまして、わずかに持仏堂にのみ人の気配がございます。
持仏堂の明り障子も、護摩の煙に包まれている。
匡房は参上の由を告げましたが、まるで反応がございません。
しばらく佇んでおりますト、やがて乱暴に障子を開けて、頼豪が姿を現しました。
その姿に、長年親しくしてきた匡房もあッと驚いた。
眼はしゃれこうべのごとく落ち窪み。
長く伸ばした白髪は、まるで銀の針を磨いたよう。
手足の爪も切らず、身の垢も積っている。
「宣旨の御使に参ったか。お断り申そう」
ト、拒絶するその表情も、どこか朦朧トしております。
「貴僧とは浅からぬ仲ではないか」
匡房もなんとか心を開かせようと試みますが。
頼豪はすでに元の頼豪ではございません。
「天子の虚言への遺恨を晴らすため、皇子を冥土へ連れ戻すまで」
そう言い放ち、頼豪は障子をピシャリと閉めてしまった。
天皇は匡房からの知らせを受けまして。
ますます思い悩んでおられましたが。
ある晩、妙な夢を見られました。
赤い衣をまとった老翁が、弓に大きな矢をつがえている。
驚いて何者かと尋ねられますト。
叡山の西麓に住まう赤山明神であるト申します。
三井寺に戒壇を建立させたまえと、我に懇願する者がある。
御免蒙って、今そなたに矢を放たん――。
ト、射られそうになったところで目が覚めた。
やがて、頼豪が持仏堂に籠もったまま餓死したとの報せが伝えられました。
その亡骸は悪鬼の姿に成り果てていたという。
天皇はいよいよ血の気が引く思いでおりましたが。
それから皇子が患いつくようになりまして。
近江国の六十町の田地を、急いで頼豪の坊に下賜なされます。
が、時すでに遅しとはこのことでございましょう。
承暦元年八月六日、皇子は御年四歳でこの世を去られました。
天皇のお嘆きはひとかたなりません。
今度は山門延暦寺に泣きつきまして。
何とか皇子が生まれるように祈祷してほしいと仰せられる。
その甲斐あったか、翌年の冬。
中宮が皇子をお生みになりました。
後の堀河天皇でございます。
白河天皇はこれでようやく、ほっと息をつかれましたが。
こうなると黙っていられないのが、死せし頼豪の怨霊でございます。
これもそれも、そもそもは山門延暦寺というものがあればこそ。
もはや我慢がならぬ、山門の仏法を滅ぼさんト。
怨霊が怨みに怨みを重ねまして――。
ついに一匹の大きな鼠の姿になりました。
鼠は憤怒に身を砕き、心を千々に乱したあまり。
その姿は八万四千もの小鼠の大群ト化しまして。
硬い石の身体を持ち、鉄の牙を剥き出しにして。
比叡山を西麓から一斉に駆け上がった。
その様はまるで、逆流する黒い溶岩のごとくでございます。
鉄鼠(てっそ)の大群は、叡山の仏堂、経蔵へと群がり入り。
仏像、経巻を、噛み砕き、食い破る。
叡山の僧侶たちは上を下への大騒ぎでございます。
群がる鼠たちを打ち殺し、踏み殺しトいたしますが。
殺しても殺しても、次から次へと襲い掛かってくる。
もはや人の力では怨霊に敵わじト。
山門延暦寺の側でも諦めまして。
社を築いて頼豪を神と崇め、これを「鼠の宝倉(ほくら)」と名づけました。
こうしてようやく、鼠の騒乱は鎮まりましたが。
白河天皇念願の世継ぎ、後の堀河天皇は幼い頃からご病弱で。
二十九歳の若さで崩御されました。
高僧が怨念のために鉄鼠と化し、怨敵に祟りをなしたという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(「源平盛衰記」巻四『頼豪祈出王子事』『赤山大明神事』『良真祈出王子事』『頼豪成鼠事』、及ビ「太平記」巻第十五『園城寺戒壇事』ヨリ)