こんな話がございます。
平安の昔の話でございます。
ある時、京から美濃、さらに尾張へ向かおうとしている下臈がおりました。
下臈――すなわち、当今で言う町人、あるいは下男のようなものでございますナ。
元々は明け方に京を出るつもりでございましたが。
どうしたことか、何やら胸騒ぎがして落ち着きませんので。
夜のうちに家を発っていきました。
夜寒の中、息を白くしながら。
とある辻までやってきますト。
大路に人の気配がある。
見るト、青みがかった衣を着た女が、一人で立っておりました。
この夜更けですから、まさか一人ではあるまい。
同行の男がどこか近くにいるのだろう、ト思いまして。
下臈も何気なく脇を通りすぎようトした。
ト、不意に女が下臈に声を掛ける。
「あの、どちらへ参られますか――」
その声が何か妙に消え入るような調子でございましたので。
下臈は、ふと女のほうを振り返りますト。
身なりはそれなりに品がございますが。
その面影は、どこか精気がなく。
それでいて、遠く揺らめく漁火のように。
内に思いを秘めたが如き気色がある。
男は、ただ問われるがままに、
「美濃、尾張の方へ向かうところでございますが」
ト、答えました。
「それでは、さぞお急ぎなのでございましょう。ただ、私も少し大事の用がございまして。ご面倒はお掛けしませんから、どうか少しの間、お話を聞いてくださいませ」
女が下臈の袖を引きました。
男はしかるべき身分の女に、引き止められましたので。
戸惑いつつも、悪い気はいたしません。
「この辺りに、民部大夫の何某という人の家があるはずなのでございますが、あなた、ご存知でいらっしゃいますか。お屋敷へ伺うつもりが、どこをどう間違えたのか、道に迷ってしまったのでございます。夜道に女一人でございます。どうか、一緒に探してくださいませ」
ト、女がすがるように申します。
下臈は京の人間でございますから。
民部大夫の何某の屋敷を知らぬわけがない。
さては、初めて京へ上ってきたのだなト思いつつ。
「それはもちろん知っておりますが、全くの見当違いの道へ出られたようですな。連れて行って差し上げたいのはやまやまですが、私も急いでいるのです。誰か他の人をあたってください」
ト、辞して去ろうといたしますト。
「そんなことをいわずに、もし――」
ト、強く袖を引かれました。
それは袖を引くというよりもむしろ。
袖を引き破ろうトでもするかのようで。
下臈は仕方なく、女を連れていくことにした。
女がやっと安心して、笑みを浮かべる。
その笑みが、初めて女の表情に精気を差したように見えました。
こぼれんばかりのあどけない笑みに、男もふと我を忘れそうになる。
女は道中、ずっと肩を寄せてついてくる。
その衣から、ほのかな香が漂ってまいります。
下臈とはいえ、真面目な男でございますので。
妙な気など起こすことはございませんが。
今、この女は一体、何を心に思っているのだろうト。
男は気もそぞろに、夜道を歩いて行きました。
やがて、民部の大夫の屋敷の前に着きまして。
「ここが民部の大夫のお屋敷でございます」
ト、男は立ち止まって女を見る。
女は何も言わず、柔らかい笑みで男を見る。
「この御恩は決して忘れません。私は近江国の某郡某郷のしかじかという者の娘でございます。東国へいらっしゃるのでしたら、ちょうど通り道でございます。是非、お尋ねください。是非――。きっとですよ――」
その言葉に男が妙に気恥ずかしく思い。
つい、目を逸らしてしまったその間に。
女の姿は、まるで夢のように消えておりました。
――チョット、一息つきまして。
コメント
新年の記事期待してます!わくわく。
ありがとうございます。
新年の更新はもう少し先になりそうです。
楽しみにお待ちくださいませ。