こんな話がございます。
昔、摂津国兵庫のあたりに、長七ト申す者がございました。
大坂から酒を取り寄せて、商いをしておりました。
長七は近頃、二親を立て続けに亡くしまして。
当人はト申しますト、四十を過ぎてもいまだ独り身でございますから。
突然、天涯孤独の身トなってしまった。
商売にせわしなく立ち回っているトは申しましても。
寂しいものはやはり寂しいものですので。
いれば慰みにでもなろうかト。
雌犬を一匹買い求めて、飼うことにいたしました。
矮狗(べいか)トいう小型の犬種でございまして。
そこらの野良犬とはわけが違う。
そもそもが愛玩用に掛け合わされたものでございますから。
姿かたち、しぐさなど、どこをとっても愛くるしくできている。
長七もすっかり心を奪われてしまいまして。
殊の外、この犬を可愛がります。
様々な芸を仕込んでみたり。
夜には懐に抱いて共に寝たり。
朝夕には己の器に餌を盛って食わせたり。
こうなるト、ほとんど女房のようなものでございます。
いや、炊事洗濯をさせない分、女房以上の可愛がりようで。
ところが、そんな長七の様子を目にいたしまして。
眉を顰める朋輩が少なくありません。
「長七。お前、いつまで独り身でいるつもりだ。世話をしてやるから、早く嫁をもらえ」
ナドと、おせっかいな奴はどこにでもいるもので。
そこらの家の娘と話をつけて、勝手に仲人の真似事をし始めた。
とはいえ、友達の好意であることは長七にもよくわかりますから。
その縁談をありがたく受けて、その娘を妻に迎えることにいたしました。
これまで独り身の寂しさを犬相手に紛らわせてきた長七でございますから。
もらった女房を非常に大事にいたしまして。
夫婦は仲睦まじく暮らします。
女房も働き者で、夫の商売をしっかり支えます。
長七は女房にも、犬を可愛がってもらいたいト思いまして。
これまで仕込んだ芸を披露させようと仕向けますが。
犬はまるで機嫌を損ねてでもいるかのように。
そっぽを向いたまま、身動き一つとろうとしない。
その日以来、犬は女房に何かと食ってかかるようになりまして。
姿を見れば、吠え立てる。
追い回しては、飛びかかる。
一度などは女房が噛みつかれそうになったこともございました。
女房も何となく気持ちは分かります。
畜生とはいえ、女は女。
それまで独占してきた主人の床を。
寝取られた気にでもなっているのだろう。
女房も心がけの殊勝な女でございまして。
何とか気を引こうと、餌をやったり、なでたりしましたが。
犬は全く女房に懐こうとはいたしません。
ついにある日の昼下がり。
うたた寝をしていた女房に。
かの犬が今だとばかりに襲い掛かりまして。
喉笛を狙ったところが、外れて小袖の襟を食いちぎった。
これにはさすがに女房も恐れをなしまして。
これまでの態度を一変させます。
「私も努力はしましたが、もう堪忍なりません。実家に帰らせていただきます」
ト言って、出ていこうといたします。
犬が盛んに吠え立てる。
その様はまるで、追い打ちをかけるかのよう。
長七は慌てて女房を引き留めまして。
「待て待て。そう慌てるな。そういうことなら、この犬をよそにやろう」
ト、妻の歓心を買おうとする。
ところが、そんな恐ろしい犬は、どこへ行っても貰い手がございません。
妻は出ていこうとする。
犬は盛んに吠え立てる。
長七はすっかり弱り切ってしまいまして。
ついに、犬との縁を切ることにした。
――チョット、一息つきまして。