どこまでお話しましたか。
そうそう、漁師の娘のおさよが、流れ着いた異人の娘を見殺しにして逃げてきたところまでで――。
美しい異人の娘の、怨みに狂ったような最期の顔。
それが、いつまでもまぶたに焼き付きまして。
おさよは、このことを誰にも言えずに黙っておりましたが。
それだけに、何とも言えぬ後ろめたさを、心に強く抱えるようになりました。
いや、どうせ殺される身だったのだ。
だからこそ、足腰をあんな風に縛られて。
この厳寒の海に投げ込まれたのではないか。
そう納得しようとはいたしますが。
自分と変わらぬ年頃の娘を――。
しかも、どこで投げ込まれたかはわかりませんが。
あの姿でここまで泳いできた、けなげな娘を――。
見殺しにしたという自責の念が、いつまでもおさよを苦しめます。
思い悩んだあまり、おさよは寝込んでしまいました。
父はその様子を見て心配をする。
海に出るのをやめて、娘の看病をします。
ト、そこへ――。
「おーい、清六さん。おさよ。おるか」
答える前から、勝手に戸を開けて入ってきたのは、玄蔵ト申す若い荒くれ者で。
「なんだか、調子を崩して寝ているそうじゃねえか。朝に釣ってきたばかりだ。これでも食べて精をつけろよ」
この時期によく採れるブリでございます。
それをわざわざ切り身にして、玄蔵が持ってきた。
その魂胆は、父娘ともよく分かっている。
玄蔵は以前からおさよに執心しておりまして。
嫁にくれト幾度も申し入れたが、父の清六に断られておりました。
村一番の荒くれ者は激怒しまして。
いつか痛い目に遭わせるト吹聴しておりましたが。
こうして見舞いに来るところを見るト。
やはりまだ諦めきれないようでございます。
父は玄蔵をかわゆく思いまして。
礼を言い、切り身を受け取りました。
おさよも、初めて玄蔵の情に触れた気分になり。
涙ぐみながらこれを口にしましたが。
翌日、恐ろしい噂が村を駆け巡りました。
「玄蔵ほど、酷いことをするやつはいねえ」
「まったくだ。恐ろしい男だ」
「どうせ死んでいるからと、浜に流れ着いた異人の娘を、背負って帰ったそうじゃねえか」
「それだけなら、まだしもだ」
「そうだ。刀で切り刻んで、切り身にしてやったというから恐ろしい」
父娘はこの噂を耳にしますト。
お互いゾッとして顔を見合わせました。
そこへ玄蔵がやってくる。
「玄蔵。お前、妙な噂が出回っておるぞ」
父が、玄蔵をおずおずと見上げるようにして、言いました。
「噂なもんか。みんな本当だ。あれは異人の娘の肉よ。ざまあみろ、この人喰い女め」
玄蔵は、怨恨をぶつけるようにして。
赤い肉の塊をおさよに投げつけた。
おさよは囲炉裏端で体を暖めておりましたが。
顔にぶち当たって落ちた、その赤い肉塊を目にいたしますト。
おぞましさに身悶えして、思わず吐き出してしまいました。
玄蔵は喜々として帰っていく。
あまつさえ見殺しにした異人の娘。
最期の表情は未だに忘れることがない。
知らなかったとはいえ、その肉を己が食ってしまったとは――。
おさよはますます気を病みまして。
もう床から出てくる気力もございません。
――ト、初めこそ、自分でもそう信じておりましたが。
おさよの心とは裏腹に。
妙な精気が体内にみなぎってくる。
おさよはそれを恥じました。
いや、後ろめたく思ったのでございましょうか。
異人が化けてでも出てくれれば、まだ謝りようもございますが。
何も起きずに、静かに時が流れるのが、かえって不気味で恐ろしい。
飯もろくに喉を通らず、父も心配いたしますが。
己の身体は至って健康でございます。
生きたまま、地獄の責め苦を味わわされているような、この辛さ。
もしや、同じ血肉となった異人の娘が。
己の身体をもって、生き延びようとしているのではないか。
あの娘の心に、いつか体を乗っ取られてしまうのではあるまいか。
そんなふうに思うこともございましたが。
心はいつまでも己のままでございます。
特に怪異に脅かされることもございません。
淡々と時は過ぎていきました。
淡々と――。
実はそれ自体が、すでに怪異だったのでございます。
時が経ち、おさよは己の身に起きた変異に、ようやく気がつきました。
父も、村人たちも、玄蔵も――。
皆が年を取っていき、顔形も変わっていくというのに。
己だけが若い娘のまま、一向に容姿が変化しない。
やがて、父が臨終の床につく。
あれから数十年が経ちましたから。
父はよぼよぼの老人でございます。
「最期まで若い娘さんがそばにいてくれて。こうして看取ってまでくれて、本当に有り難い」
父は耄碌しておりました。
それからまた、十年、二十年と経ちまして。
玄蔵の死にも立ち会いました。
独り身のまま死んでいく玄蔵でございます。
謝るつもりで訪ねたところが、玄蔵老人はおさよをひと目見ますト。
「ば、化物ッ――。許せ。許してくれ――」
弱くなった足で、必死に床から這いずりだし、逃げようといたします。
村中から怯えられるようになりますト。
生きていることが、もう恐ろしくなってしまいまして。
あの異人の娘のように、海に飛び込んで死のうと考えますが。
気が付くト、浜に打ち上げられている。
気が付くト、他の村の漁師に助けられている。
それでも、次第に噂がよその村にも広まりまして。
怯えた者どもに、殺されそうになったこともございました。
だが、それでも死ねない。
おさよは、世間との交わりを断つことにし、尼寺の門をくぐりました。
ところが、ここでも起きることは同じでございます。
師僧も仲間も弟子でさえも、みないつかは老い、死んでいく。
自分だけが虚しくも、若さを保って生きている。
ついには、ひっそりと隠れるようにして。
一人、岩屋に篭って暮らすようになりました。
それが、日蓮上人が流されてきた頃のことでございまして。
その頃、おさよはすでに四百歳を過ぎていた。
その上人も、とうの昔に亡くなりました。
「四百歳ッ――」
若い罪人は、比丘尼の言葉を聞いて、思わず大声を上げました。
「それから四百年は経っているはずだから、す、すると、比丘尼様は八百歳ではございませんか」
「さあ、もういちいち数えることもございません」
若い罪人より、ずっと若く見えるこの比丘尼は。
始終、深い憂いにその美しい顔を沈ませていた。
「そうして比丘尼様は、これからどうするおつもりです」
若い罪人が、愚にも付かぬことを訊きました。
比丘尼は顔を上げることもなく。
優しい声音で答えました。
「ただ、死ねるのを待っているのでございます」
比丘尼のその言葉に罪人は、
「なるほど。死なせてもらえるほうが幸せなのだ」
ト、悟ったという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(全国ニ流布セル八百比丘尼伝説ヨリ)