どこまでお話しましたか。
そうそう、大事な馬の尻に食いついた河童を縛り上げた五郎兵衛が、やはり哀れに思って縛めを解いてやったところまでで――。
その晩。
寝床に入った五郎兵衛は、どうしても寝付かれません。
力なく自分を見上げた河童の虚ろな表情が、瞼に焼き付いて離れない。
考えてみれば、あの河童はまだ、ほんの子供だったようにも思われます。
もっとも、大人と子供の区別がつくほど、河童に精通しているわけではございませんが。
それでも、振る舞いがどことなく、幼かったように思われる。
馬の尻に食いついたのも、ただの戯れだったのではなかろうか。
気にかかるのはやはり、青く滲んでいた皿の血で。
あのまま水に浸かっては滲みるのではないか。
いや、まさか気を失って、今頃、河童の川流れにでもなってはいまいか。
そんな風に気を揉んでおりましたその時でございます。
馬小屋で赤がヒヒーンといななくのが聞こえました。
何事かと思ってハッと身を起こしますト。
戸口で誰かがトントンと戸を叩いている。
「こんな時分に誰だ。甚五郎かな」
そう思いながら、戸を開けますト。
そこに立っていたのは、なんと昼間の河童でございます。
手には五合入りの貧乏徳利を下げている。
「どうした。昼間の詫びか」
何気なくそう問いますト、河童は素直にチョコンと頷きました。
五郎兵衛は河童の殊勝な心がけに、何となく面映ゆい心持ちになる。
河童は五郎兵衛に徳利を手渡すと、クルリと踵を返して帰っていった。
五郎兵衛は、何やら狐につままれたような気分になりまして。
手渡された徳利を、取り敢えず傾けて中を覗いてみますト。
突然、顔にバシャバシャバシャと、酒がこぼれ落ちてまいりました。
顔に掛かった酒をペロリと下で舐めてみますト――。
そのうまいこと、うまいこと。
甘露とはまさにこのことかト思われた。
五郎兵衛は茶碗を持ってきて、酒を注いでみました。
「オヤ――」
さんざん飲んで、良い心持ちになってきた時。
五郎兵衛はふと、あることに気がついた。
「酒がいつまでもなくならないぞ」
奇妙に思って五郎兵衛は、注いでは飲み、注いでは飲んでみましたが。
やはり、徳利の中の酒は、どれだけ飲んでもなくなりません。
「そうか、なるほど――」
五郎兵衛は、はたと気が付きました。
河童はいたずらの詫びと。
縄を解いてもらった恩返しに。
いつまでも酒が尽きることのない徳利を。
お礼にくれたのに違いない。
「なるほど、可愛い奴め」
ト、五郎兵衛はすっかり上機嫌で。
その極上の甘露の味わいを。
夜が明けるまで堪能しておりました。
翌朝。
いつもの通り、朝一番に。
赤がヒヒーンといななきます。
ところが、五郎兵衛は家から出てこない。
赤は主人を待ち続けたまま。
虚しく一日が過ぎました。
その翌朝。
やはり、五郎兵衛は家に閉じこもったまま。
その翌朝も、その翌朝も――。
十日が経った朝のこと。
業を煮やした赤は、馬小屋の柵を乗り越えまして。
主人の様子を伺おうと、家の戸を押し破りました。
中を覗き込んでみますト。
そこには徳利を抱えた、赤い顔の五郎兵衛。
虚ろな目付きで愛馬を見上げた五郎兵衛は。
途端に不機嫌そうに顔を背けまして。
徳利に直接口をつけて、酒をグイッと飲んでいる。
赤は主人の大事と心得まして。
どこへ向かったかト申しますト。
件の川でございます。
河童に物申そうト思ったのでございましょう。
ところが、それを待っていたのが、河童の方で。
赤が浅瀬に降りてくるや、ザブンッと水の中から飛び上がりまして。
尻に食らいつき、頬を凹ませて、何かを吸い取ろうといたします。
赤は気味悪さと疼痛とで、身悶えしながら悲鳴を上げる。
だが、主人はもはや助けに来てはくれません。
哀れ赤は、人間の年なら十六歳を一期として。
河童に水の中へ引きずり込まれて死んでしまった。
その晩遅くになってから。
川端に五郎兵衛が、よたよたと現れまして。
空の徳利をひっくり返し、左右にカラカラと振りながら。
「おおーい、酒が尽きたぞー」
ト、河童を呼びつつ、川の中へ消えていったト申します。
恩を仇で返された男が、自堕落の淵に沈められてしまったという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(相州ノ伝説ヨリ)