こんな話がございます。
またぞろ、妲己のお百の悪行譚でございます。
桑名屋徳兵衛は罪の意識と先妻の亡霊とに追われた末に。
橋の欄干から身を投げようといたしましたが。
すんでのところでこれを救いましたのは。
美濃屋重兵衛ト申す、旅商人(たびあきんど)でございます。
年の頃は五十絡みでございますが。
背が高く、色の白い男前でございます。
「夫婦のことに口を挟む気はございませんが、橋の上で生きるの死ぬのと物騒な話。ともかく、私の家へおいでなさい。ゆっくりと話を聞きましょう」
徳兵衛もお百も、地獄で仏に出会ったような気持ちになりまして。
喧嘩をやめて、素直に後に付いていきます。
芝汐留までやってまいりますト、立派な構えの家がございまして。
重兵衛はそこに手伝いの婆さんと、二人で住んでおりました。
「先程から言葉遣いを聞いておりますと、どうやらお二人とも上方からお出でのようでございますな」
重兵衛が茶を勧めながら、二人に訊く。
「はあ。私どもは大坂の安治川口からやってまいりました」
桑名屋徳兵衛は、ため息をつきながら答えます。
「安治川口というと、あのあたりは大きな廻船問屋が七軒、軒を連ねておりますな」
「はあ。そのうちの一軒、入り山形に徳の字の印がついたのが、私が持っていた店でございます」
「すると、あなたはあの有名な廻船問屋の――」
「はあ。桑名屋徳兵衛の成れの果てでございます」
美濃屋重兵衛は、驚きのあまり、しばらく口をぽかんと開け放しておりましたが。
「佐竹様のお出入りの桑名屋のご主人が、どうしてこんな――」
ト、聞くか聞かないかのうちに、脇からお百が口を出して、嘘八百、同情を買うようなことを並べ立てます。
「なるほど。ご苦労をなさいました。私は旅廻りの小間物屋ですから、あの辺の旦那衆とも馴染みが深い。なんなら、私が仲介して、同業のよしみで百両ほど金を借りてこられるようにしてあげましょう。江戸で商売を初めて、金ができたら返せばいいでしょう」
重兵衛はいとも簡単に言ってのけましたが、当然、徳兵衛は口が重い。
「せっかくですが、実はかくかくしかじか――」
ト、大坂での悪事を白状せざるを得なくなった。
「それは大変なことをなされましたな。それでは、十両でも五両でも、とりあえず金に変えられるものは、お持ちではございませんか。例えば、江戸の人間に金を貸したことがあるとか」
そう言われて徳兵衛は、江戸のお侍に大坂で十両(約百五十万円)を貸したことを思い出しまして。
運の良いことに、財布の端にその証文が折りたたんで入っておりました。
「それでは、私が羽織袴を貸してあげましょうから、今から行って催促してきたらどうです」
ト、重兵衛の親切心から、話はトントン拍子に進みまして。
徳兵衛は借りた羽織袴で身なりを整え、さっそくお侍の屋敷へ出向いていきましたが。
半刻ほど経つと、うなだれた様子で徳兵衛が戻ってくる。
「どうしたんです」
「実は今度、甲府勤番になったとかで、昨日、江戸の屋敷を発ったそうで」
「それでは、路銀を貸しましょうから、今すぐあなたもお発ちなさい。その十両があるのとないのとでは大違いだ。あなたは私の荷担ぎでもしながら商売を覚え、そちらのおかみさんは、うちの婆さんの手伝いでもしながら待っていればいい。そうして、一通り商売を覚えた頃に、二人でどこかへ家を持って、小間物稼業で食べていけばいいでしょう」
徳兵衛は、美濃屋重兵衛の親切に胸を打たれまして。
すぐに支度をして、甲州街道を旅立っていきましたが。
これが後に回り回って、己の命取りとなろうとは。
この時は露ほども知りません。
――チョット、一息つきまして。