どこまでお話しましたか。
そうそう、小田原から箱根関所を越えることになった女芸人のお玉が、ひとり恐怖に打ち震えるところまでで――。
「姉さん、決してそばを離れないでくださいよ」
「ああ、分かってる。分かってる」
ベベンと、その度に唸る三味の音(ね)が。
お玉にはあくびのようにしか聞こえません。
二人は、旅籠で相部屋になった女巡礼らとともに、関所へ向かう。
お杉は三味の音を合いの手に。
彼女らと他愛もない話に興じているが。
お玉は一人うなだれて。
ずっとあることを考え込んでいる。
人見女の婆さんは、一体どんな人だろうか――。
お玉は十人兄妹の末っ子でして。
長兄の太郎兵衛とは十五も歳が離れている。
その兄嫁というのが、お杉と同じくらいの年増ですが。
兄嫁の母はすでに六十を越えた婆さんです。
お玉は幼い頃から、この婆さんが怖くてたまらない。
年以上に皺まみれになった顔の中に。
線を引いたようなまなこが二つ、埋まっておりますが。
何かの用事でお玉と顔を合わせますト。
決まってと言っていいほど、眼尻を下げてニタっと笑います。
お玉はいつも、その嫌な笑みを目にするたびに。
何か、取って食おうと舌なめずりをされているように感じてなりません。
いつしか、お玉の頭のなかでは。
まだ見ぬ人見女が、兄嫁の家の婆さんと重なってくる。
ただでさえ、嫌らしいあの目つきで。
己の体をジロジロと舐め回すように見られるかト思いますト。
それだけで生きた心地がいたしません。
「お杉姉さんや旅の姉さん方は、一体どうしてあんなに平気な顔をしているのかしら」
心細い面持ちで、ふと前を見たその刹那。
お玉はあまりのことにゾッとした。
夕闇迫る山道を。
いつしか自分は一人で歩いている。
前後左右を見回しましても。
どこにもお杉らの姿は見えません。
「お杉姉さーんッ。旅の姉さん方ーッ」
呼べど叫べど返事がないが。
それもそのはずでございます。
目の前は行くほどに細くなる獣道。
このまま進んでいっても、関所にたどり着かないのは明らかです。
どうやら、ぼんやりしているうちに。
脇道に入ってしまったようで。
お玉はしばし、地に落ちた己の長い影を見つめておりましたが。
ふとあることに気づいて、二度ゾッとする。
これから道を戻って関所へ向かおうと思えば行けないことはない。
だが、一人で関所へ向かっても、決して通過は許されません。
大事なお玉の女手形は、お杉が持っておりました。
しかも、元来、気の弱いお玉にとりまして。
困ったことがここにもう一つございます。
おすぎ姉さんには三味線があるが。
己には唄と踊りがあるばかり。
これでは、江戸に何をしに行ったのか、問われても答えられる証拠がない。
腕をもがれても文句の言えない、天下御免の関所でございます。
お役人の前でまごまごしていたら、命を取られてもおかしくない。
そう思うと、急に涙がこみ上げてくる。
カア、カア、と鴉が空を横切っていった。
風が吹き、森の木々がざわざわと音を立てて揺れている。
「おーい――」
その時、はるか後方から、お玉を呼ぶ声が聞こえてきた。
野太い男の声でございます。
ゾッとして後ろを振り返ると、山道を男が一人、必死に追いかけてくるのが見えてくる。
「おーい、待て。関所――」
風に声が紛れはしたものの、「関所」という言葉だけは、はっきりと聞こえました。
「関所――」
その瞬間、お玉は恐ろしい事実に気がついた。
恐らく己は、関所破りの裏道に迷い込んでしまったものらしい。
ここで捕まれば、命はございません。
どんなに良くて晒し首。
掟通りなら、磔にされて体中を槍で突かれることになっている。
お玉は思わず逃げ出した。
獣道めがけて駆けていきます。
その間も、男は地獄の邏卒のように。
大声を上げながら追ってくる。
「おーい、待て――」
ドクドクと動悸がいたします。
振り乱れた髪がしきりに目の前を遮ります。
男の声との距離が、ゆけばゆくほど縮まっていく。
草が、枝が、蔓が、お玉を地獄に引きずり込もうと、絡んでくる。
ぱっと視界がひらけた、その時――。
そこに、柵が張り巡らされているのが見えました。
「助かった――」
お玉はにわかに安堵した。
恐らくこの柵を越えれば。
役人も追っては来ないはず。
一直線に駆け寄っていきますと。
足をかけ、柵を乗り越えようといたしましたが――。
ガクガクと異様なまでに足が震えております。
己の意志に反して、後ろ足がなかなか上がってまいりません。
幸い、男は道を見失ったらしく。
声は何処かへ去っていきましたが。
お玉は慌てたあまり、柵に足が挟まって抜けません。
男の声がまた戻ってくるようにも聞こえます。
「どうしよう、どうしよう――」
必死に足を抜こうとしているところへ――。
「そこの女、何をしておる」
見上げるとそこに、役人体の男が立っておりました。
先ほどとは全く別の男でございます。
お玉は関所破りの罪で捕らえられまして。
ふた月後に、あっけなく斬首、獄門に処されました。
「お玉や、お前、どうして逃げたりしたんだい」
夕焼けに包まれたお玉の生首を、お杉が詫び入るように見つめている。
その横には、あの時、お玉を追いかけてきた男の姿。
実は、小田原の旅籠の主人でございます。
お杉はお玉がはぐれたことに気が付きますト。
世間知らずな妹分を必死で探し回りましたが。
お玉はなかなか見つからない。
そこへ、小田原の旅籠の主人が、追いかけてきたのとばったり遭った。
実は、お杉が置き忘れた女手形を、届けてくれたのでございます。
お杉は事情を話しまして。
主人にも一緒にお玉を探してもらう。
やがて、主人はお玉を見つけましたが。
お玉は役人と勘違いして、逃げ出してしまった。
その逃げた先こそが、関所破りの裏道で。
柵が張り巡らされておりましたのは。
そこを越えると死罪に処すという。
脅しの柵でございました。
「お玉や。お前は芸人だから、逃げたりなんてしなくても、関所で芸を見せれば、ただで通してもらえたんだよ。私が教えていなかったね」
お杉は旅籠の主人とともに、晒し台からお玉の生首をおろしまして。
せめてもト、血を洗い流し、髪を結い直してやろうト考えた。
そうしてやってきたのが、他でもない薺(なずな)ヶ池で。
ここで首を洗ったがために、後に「お玉ヶ池」ト呼ばれるようになりました。
お杉が、優しく血を洗い流してやっておりますト。
お玉の生首は突然、安心したように表情を緩め、
「ほうやれほ――」
ト、一声唄って、目を閉じたという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(相州ノ伝説ヨリ)