どこまでお話しましたか。
そうそう、京へ逃げた将来の夫を待ち続けているうちに、お朝が憂いのあまりに命を落としてしまったところまでで――。
お朝の埋葬から三十日が過ぎたある日。
浜田の長八の家に、ひょっこりと姿を現した者がある。
他でもない、許婚の平次でございます。
五年の間にすっかり、立派な若者に成長しておりました。
「お義父さま、お義母さま。長らくお待たせいたしました。実はかくかくしかじか――」
京の都で暮らしていた平次の二親が、相次いで亡くなり。
もはや戦乱も収まった頃だろうト、ひとり戻ってきたト申します。
「平次、よくぞ戻ってきてくれた。しかし、お前の妻はもうこの世にはおらぬぞ」
「えッ――」
己を思って病に臥せったお朝の死を聞かされまして。
平次は自責の念に駆られること甚だしく。
翌日は早くから持仏堂に篭って、念仏供養に没頭する。
その姿を見て、長八夫婦もいたたまれなくなり。
平次を離れの一室に呼び出しますト。
「平次よ。婚礼を挙げていないとはいえ、お前はすでにお朝の夫。父上亡き今、これからはこの家の婿となって、この一間に留まっておくれ」
長八の気遣いに平次も心から感じ入りまして。
婿としてこの家の一室に住まうことに決めました。
平次は毎日、朝な夕なに念仏を挙げて、恩に報いようとする。
それから半月の後、四十九日の法要が執り行われることになりまして。
一家は平次に留守を守らせ、小塩の寺へ向かいました。
夕方、帰宅した一行を平次は門に出迎える。
三基の輿が夕日を浴びながら、次々と門内へ入っていく。
ト、その最後の一基から何かがスルッと落ちました。
平次が歩み寄って拾い上げるト、赤い組紐でございます。
お朝へ縁談の印に送られた、赤い打ち帯に相違ない。
とはいえ、実を申しますト。
幼い時に父が浜田の家へ贈ったものでございますから。
平次自身はそれを見たことがございません。
この時も、何だろうと思っただけで、ただ自室へ持ち帰りました。
夜。
平次はお朝の棺にあるはずのその打ち帯よりも。
己を待ちあぐねて死んだお朝への思いに沈んでいる。
ト、その闇の中で、静かに障子を開ける音がした。
燈籠の灯の届かぬ暗がりに女がひとり立っている。
「平次さん――」
その消え入るようで、また凄みを含んだような声に、平次は思わずゾッとする。
「お、お朝か――」
「いえ――」
そう言えば、まだ幼い声に聞こえます。
「お朝の妹のお夕でございます」
そっと畳を擦る音が近づいてくる。
徐々に燈籠に姿が照らし出される。
現れたのは、今年十六になるはずの、妹娘のお夕でございます。
あどけなさの中に、女らしさがほんのり漂っている。
お夕は、頬を赤く染め、やや伏し目がちに平次を見て。
「帯は――帯は拾ってくれましたか」
窺うように小声でそう言いました。
平次は、その時初めて妹娘の真意を知りました。
思いも寄らぬ振る舞いに、平次は大いに困惑する。
ト、答える間もなく、お夕が平次のそばに腰を下ろしまして。
しなだれかかるように、小枝のような身をすり寄せてきた。
肌の匂いがふっと香ってまります。
「ほんの幼い時分から、私にだけあの赤い帯がないのを、お恨み申し上げてまいりました」
ト、肩の下から見上げるその眼差しには。
妙な色香が込もっている。
途端に平次は、何か穢らわしいものに触れた気持ちになり。
お夕のか弱い身を払いのけますト。
背を向け、目も合わさずに、一喝した。
「ただでさえ、義父母に恩を受けているこの身。亡き妻の妹と夜分に一室で相まみえる訳にはいかぬ」
するト、その刹那に平次の肩がグッと強い力で掴まれまして。
無理矢理に振り向かされた先には、嫉妬に狂った女の顔。
取って食わんばかりの勢いで、姉婿の平次に迫ってくる。
ついに平次は強いられるがまま、お夕と契ってしまいました。
それからというもの、お夕は毎晩、平次の部屋に忍んでくる。
初めこそ、夜叉に食われる思いでいた平次ではありましたが。
そのうちに、心を許すようになるのが人情で。
禁じられた戯れを、己も徐々に楽しむようになる。
すると、三十日余り経ったある晩のこと。
一つ夜具の中に寄り添っていたお夕が、ささやく様に言いました。
「この上は、二人で家を出ていきましょう」
平次も、このまま恩ある義両親の家で背徳に耽るよりは、ト考えまして。
その夜のうちに荷物をまとめ、長八の家から出奔いたしました。
三国湊の知るべを頼り、二人は一年ばかり身を隠しておりましたが。
「ここへ二人で逃げてきたのも、亡くなったばかりだった姉への気兼ねに耐えかねてのこと。もとよりお父様にお母様は、私たちを咎めてはおりますまい。そろそろ郷(さと)へ帰って、本当の夫婦にしてもらいましょう」
ある時、お夕がそう切り出しました。
平次は恩人と妻を裏切った身ですから、後ろめたさがどうしてもある。
その様子を目ざとく見て取ったか、お夕が背中を押すように申します。
「お父様が何のために、あなたにあの一室をあてがったか、考えてもご覧なさい」
そう言われれば、そうかもしれないト。
平次もようやく決心がつきまして。
お夕と二人、船に乗り、敦賀の津を目指しました。
「お夕。私はどうしても、義父母にお詫びからしなければならない。お赦しをいただけるまで、お前はここで待っておいで」
緊張した面持ちで、平次は浜田長者の大きな門をくぐりまして。
夫妻に面会し、これまでのいきさつを話して、頭を下げる。
ト、長八夫婦は平次を見て、きょとんとしております。
「お前は何を言っている。お夕なら奥の間でもう何年も病の床に伏している。姉娘の死以来、嘆きの余りかふさぎ込んで、口も聞かぬようになってしまった。家を出たのもお朝の四十九日の法要の時、たった一度きりだ」
信じようとしない平次を、長八夫婦は奥の間へ連れて行く。
そこには確かに、平次のよく見知ったお夕が、力なく横たわっている。
ただ、その顔に生気はまるでなく、目が深く落ち窪んでおります。
平次がやってきたのを目にするト。
その死人のような娘が、ゆっくりと半身を起こしました。
「お父様、お母様。私はお朝でございます」
紛うことなきお夕の声で、やつれた娘はそう言いました。
長八夫婦は、目を見開いて、言葉を失っているばかり。
「冥府の住人となりましても、起き伏し思い出されますのは、平次様のことばかり。きっと、お母様が結んでくださった、あの打ち帯のために違いありますまい。お夕には悪いと思いつつ、その身を借りて夫婦の契りを結んできたのでございます」
長八夫婦はそれを聞いて、大変な奇特と考えまして。
亡霊の要望にひとつひとつしたがいます。
妹のお夕の身をもって、平次の妻とするトお朝に誓う。
一方の平次はト申しますト。
これは亡霊の言うことを全く信じておりません。
いや、これがお朝の亡霊だとは露ほども思ってはおりません。
(生霊だ――。あれはお夕の生霊だったのだ――)
ト考えたのには、わけがある。
あの最初の晩、平次に不貞を一喝されたあの時の。
嫉妬に狂ったお夕の形相を、まだ忘れていなかったからで。
初めからお朝の亡霊だったのなら、あんな表情を見せるはずがない。
(俺は生霊と契り、生霊と駆け落ちまでしてしまったのだ――)
そう考えると、我ながら改めて情けない思いがいたしましたが。
次の瞬間、ふと恐ろしい考えが頭をよぎった。
(待てよ。ということは、お朝が死んだのは――)
平次は恐る恐る顔を上げて、お夕を見る。
お夕は落ち窪んだ目でこちらをじっと見返している。
(死に顔が断末魔の苦しみに満ちていたというのは――)
平次は恐ろしくなって、思わず逃げだそうといたしましたが。
立ち上がったはいいものの、体が意思に反してうまく動かない。
ふと見やると、床の中のお夕が小指で何かを手繰るような仕草をしている。
その指先をよく見てみますト、お夕の小指に赤い細紐が結ばれている。
細紐の行く先を視線でたどっていきますト。
それは己の右足首に幾重にも粗暴に巻きついていた。
お夕が小指で赤い紐を手繰り寄せる。
平次の身が、ぐいぐいト引っ張られていく。
長八夫婦には何も見えていない。
生気のないお夕の落ち窪んだ眼差しに。
妖しくも艶めかしい笑みが漂っている。
赤い糸が結ばれていた先は、姉をも取り殺す女の情念だったという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(浅井了意「伽婢子」巻二ノ二『真紅撃帯』ヨリ)