どこまでお話しましたか。
そうそう、かつて深川一の芸妓と評判を取った峯吉を、お百が家に招き入れるところまでで――。
お百は、峯吉と娘のお静(しず)を家に招き入れますト。
ともかくはト、母子に飯を食わせてやる。
ふたりとも、暖かい部屋で温かいおまんまを食うのは久しぶりですから。
目の見えない峯吉も、頑是ないお静も、お百を地獄に仏とありがたがる。
「うちはね、旦那が旅商人で留守がちだから、私も暇を持て余しているんだよ。河原の掘っ立て小屋に暮らしているくらいなら、どうだい。うちの二階に住んだらいいさ。私も今でこそ、上方唄の美濃屋小さんともてはやされてはいるが、まだまだお前さんにはかなわない。どうか、私に稽古をつけておくれよ」
峯吉は、住む家をあてがってもらえる上に。
師匠のように持ち上げられるものですから。
小さんことお百の人情に深く感じ入る。
母子ともに神仏を崇めるようにお百に手を合わせ。
もったいなくも二階を借りて住まうこととなりました。
それからはお百も母子を大事にしまして。
三度の飯をしっかり食わせてやり、三味線の稽古も受ける。
そんな穏やかな暮らしがふた月ほど続きまして。
三月の初めに差し掛かった時のことでございます。
眼病を患っている者に取りましては。
季節の替わり目が特に辛いそうでして。
俗に春の初めを草咲き、秋の初めを草枯れという。
この時がもっとも痛むそうでございます。
峯吉も例に漏れず、ひどく痛がり始めましたが。
実はこの時が来るのを、お百はずっと待っていた。
「峯吉さん。お前、上杉様のお留守居役の山田様をご存知だろう」
「はい。昔、このあたりで芸者をしていた時分、大変お世話になりました」
「その山田様のお座敷に、この間私が呼ばれてね」
「おや、そうでございますか。お変わりございませんでしたか」
「ああ。お前の話をすると、そういうことなら数寄屋河岸に大久保玄達という眼科の名人がいるから、そこへ行って療治をしてもらってくるように伝えてくれ。代価は俺が払うから、とおっしゃるんだよ」
峯吉は感涙にむせびまして、勧められるまま、大久保玄達の家へ泊まり込みで療治に出掛ける。
その間、お静はひとり、二階で母の帰りを待ちました。
峯吉が療治に出かけて六日が経ったある日のこと。
お百の家の格子をガラリと開けて、小肥りの四十男が入ってきた。
「ハイ、ごめんなさいよ。こちらに葛西屋の女房お峯と申す者がおりますでしょう」
お百は戸口に出ると、訝しそうに男を見て。
「峯吉さんなら、当分帰ってきませんよ。あなたは全体、どなたです」
「えー、私は葛西屋の死んだ主人の分家の者で」
「何の御用です」
「ご存知かどうかは知らないが、葛西屋が死ぬ前に残した借金がたくさんある。私も同じ一家の者ですから、泣きつかれて三度、都合二百二十両貸しました。ところが、その後催促しても一向に返してくれない。四度目に無心に来た時にはさすがに断りましたが、娘のお静をかたにするから貸してくれと土下座をする。仕方なく貸しはしましたが、すると当人が死んでしまった。証文があるから女房のお峯さんに迫りますと、娘ともどもふっと姿を消してしまった」
「それで、ここまで追いかけてきたと言うんですか」
「そうです。すると、お峯さんは目を患って、門付けをして食べているという。悪いが、その様子ではとても三百両の大金は返せまい。証文はあなたに預けますから、お静を渡しておくんなさい。二階に住んでいるんでしょう」
ト、男は草履を脱いで勝手に上がってこようとする。
「ちょっと、お待ちよ。女の家に勝手に上がるもんじゃありませんよ。なんです、突然。見知らぬ人が借金がどうだと言ってお静ちゃんを連れて行くのを、私が黙って見送るとでもお思いですか。人の大事な娘を預かってるんだ。素性の知れない人になど渡せませんよ」
お百が押し返すと、男もカッとして大声でまくし立てる。
そこへ、お静が心配そうに二階から降りてくる。
それを見て、男が力づくで連れて行こうと暴れだす。
騒ぎを聞きつけて、長屋の衆が駆けつけ、男を取り押さえる。
「おいおい。どこのどいつだか知らねえが、狭い長屋で暴れるんじゃねえ。そんなに騒ぎ立てるなら、当人が帰ってきてから直接話したらいいじゃねえか。うるさくって仕方がねえ」
男は大勢に取り囲まれて、仕方なく帰っていきました。
長屋の連中もそれぞれの家に戻っていく。
「お静ちゃん。安心おし。ああやって証文を振り回しているけど、お金さえあれば静かになるんだよ。お金なら、おばちゃんが工面してあげるから。その代わり、お静ちゃんにも手伝ってもらうことがあるよ。それでいいかい」
お静はなんだかよく分かりませんが。
とりあえず仏の小さんが言うことですから。
安心して頷きました。
それから半月ほどが過ぎまして。
療治を終えた峯吉が、晴れやかな表情で戻ってくる。
ト、二階にお静の気配がございません。
「ああ、お静ちゃんかい。実はね、木場の雑賀屋さんという大きな材木問屋の旦那に呼ばれてね。そこの娘さんの踊りの相手で、向島の寮(別荘)へ行っているよ。ただで芸を仕込んでくれると言うんだから、いい話だと思うがね」
「左様でございますか。何から何までお世話していただいて――」
ト、峯吉は初めのうちこそ、喜んでおりましたが。
踊りの相手で、向島の寮へ行ったという娘のお静が。
その後、いつまで経っても戻ってこない。
「あの、うちのお静は――」
「ああ、おいおい戻ってくる頃だよ」
「あの、お静は――」
「ああ、二、三日中には戻るだろう」
それが、最近では毎日のように繰り返されるものですから。
お百はうんざりして、峯吉を二階へ追いやりますト。
はしごを外して、降りてこられなくしてしまった。
「ハイ。ごめんなさいよ。姐さん、いるかい」
ト、入ってきたのは、件の葛西屋の分家の男。
実はお百が手下同様にしている、二つ目の源六ト申す悪人で。
「姐さん、今日は骨折り賃を頂きに――」
「何が骨折り賃だよ。あんな上玉をたったの百両で」
「たったの百両とおっしゃる。それは姐さんがご存じないからだ。吉原で娘が百両で売れるなんてことは滅多にない。百両で売れたのは、あのお静坊がよほどの上玉だったからで」
「しッ。二階にいるんだから、大きな声をお出しでないよ」
すると、このやりとりが峯吉の耳にもかすかに届いたようで。
「小さん姐さん。今、お静坊がどうだとか、聞こえたようでございますが」
ト、二階から弱々しい声で問いかけてくる。
「なんでもないよ。体が悪いんだから、黙って寝ておいでよッ」
お百はイライラしながら、源六を見る。
「あれを始末してくれたら、あと五両上乗せするよ」
「二十両か。きっとですぜ」
源六は台所へ行って、鯵切り包丁を研ぎ始める。
お百は一転、猫なで声になり。
「峯吉さん。今、はしごを掛けたから降りておいでよ。木場の旦那が人を寄越してね。お前さんを向島の寮に連れて行ってくれると言うんだよ。久しぶりに親子水入らずで話でもしてきなよ」
峯吉は喜んで、はしごを転げるようにして降りてくる。
その手を二つ目の源六がしっかりと握り。
お百に目配せをして出ていきました。
「どなたかは存じ上げませんが、夜分に遠くまでお送りいただきまして、ありがとうございます」
目が暗くても、潮の匂いで夜であることが知れるようでございます。
寂しい大川端を、知らぬ男の手をしっかり握って、峯吉が半歩後をついていく。
「どなたかだって。俺は葛西屋の分家の者よ」
「葛西屋の――。しかし、葛西屋に分家などないはずですが」
「そりゃそうだ。みんなこしらえごとだからな」
「あの、私には何のことだか――」
「分かりはしまい。まあ、今さら知ったって冥土の土産にもなりはしまいが」
「何のことです」
峯吉は源六から手を離して、立ち止まる。
源六は提灯の火をふっと吹き消して振り返る。
「お前さんの娘のことさ。お静坊は俺が吉原の三浦屋に百両で売ってきたよ」
「なんですって」
峯吉の草履がじりじりと砂を踏みながら後ずさりする。
源六はゆっくりと手を伸ばして、細い腕を掴む。
「おっと、恨む相手が違ってるぜ。全部、お百姐さん――いや、美濃屋小さんの差し金だ」
ト、言ったか言わぬかのうちに、鯵切り包丁が峯吉の腹にブスリッ。
峯吉は腹を抑えて悶絶しながら、源六に掴みかかる。
「小さん姐さん――どうして――」
声を上げれば上げるほど、息が弱くなっていく。
源六はもうこれ以上教えてやることもなかろうト。
腹にもう一度とどめを刺しますト。
最後の執念で足にしがみついてくる峯吉の体を。
振り払って、土手から川に蹴落とした。
峯吉が大川の泡と消えた時。
お百は峯吉に教わった小唄を鼻で唄いながら。
ひとり銚子を傾けて。
ほろ酔い気分で笑みを浮かべていたという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(講談「秋田騒動 妲妃のお百」ヨリ)