どこまでお話しましたか。
そうそう、瀬田の唐橋に差し掛かった遠助が、もやの中で女から箱を託されたところまでで――。
従者にその様子が見えていないナドとは。
遠助はまるで知りませんでしたから。
女が首をまた前に向け、まっすぐに歩み去っていくのを見届けますト。
渡された箱を懐にしまい、再び馬に乗りました。
それから馬と従者とともに道を行き。
美濃国に到着しましたが。
どうしたことか遠助は、あの箱のことをすっかり忘れてしまっていた。
「なんとしたことだろう。あれほど気味の悪い出来事は二度とあるまいに。まるで忘れる定めにでもなっていたかのように、すっかり忘れてしまっていた」
遠助にはどうしても、美濃の橋の西詰にいるという女官が。
いつまでも待ちぼうけているように思われてなりません。
「大変だ。明日、時間を作って渡しに行こう」
そう考えて、戸棚の奥の方に箱を隠しておいた。
数年ぶりに帰ってきた夫のこうした挙動が。
遠助の妻には、どうも不審に見えてしまう。
「女ができたに違いない」
特に嫉妬深いたちではございませんが。
こうした状況で女が考えることと言ったらひとつです。
たとえ前後の脈絡が合おうが合うまいが。
不合理を妄念で埋めるのが、女のひとつの性(さが)でございます。
「私には買わない土産を、別の女にだけは買ってきたのに違いない」
ト、よくもここまで話を補えるもので。
夫が帰郷の挨拶に近所へ出かけていきますト。
妻はさっそく、踏み台を用意いたしまして。
戸棚の奥に隠された、絹で包まれた美しい箱に手を伸ばした。
その白い絹の肌触りのなめらかなこと。
撫でれば撫でるほどに、うっとりと恍惚に浸りますが。
その恍惚が徐々に、嫉妬の波と化して、妻の心に押し寄せる。
妻は乱暴に絹の包みを解きますト。
桐でできた箱の蓋を開けて投げ捨てた。
ところが、箱の中を覗いた妻は。
途端に狂ったような悲鳴を上げました。
その場で卒倒して、長い間気を失った。
遠助は絹の箱のことが気にかかって、気もそぞろに帰ってくる。
ト、あの戸棚の下で、妻が泡を吹いて倒れている。
驚いて駆け寄ってみるト、桐の板が転がっている。
嫌な予感がして、戸棚を見てみますト。
絹の包みが解かれて、蓋が開けられておりました。
遠助は思わず目が箱の中に吸い込まれそうになりましたが。
瀬田の唐橋の女官の言葉を思い出しまして。
ギュッと目をつぶって顔を背けた。
倒れている妻の傍らに落ちていた蓋を拾い上げ。
目をつぶったまま、桐の箱を閉じ。
絹布で再び箱を包むト、慌てて家を飛び出していった。
「大変なことをしてくれたものだ。しかし、一体何が入っていたからと、妻は泡を吹いて倒れていたのだろう――」
もはや遠助は、妻の容態など気にならない。
ただ、箱の中身が気にかかる。
いや、箱の中身を妻とはいえ、誰かが見てしまったことが気にかかる。
大急ぎで、言われた橋のたもとまでやって来ますト。
日はすでに暮れかかり、夕焼けが長い影を地に落としている。
川の水面が、きらきらと夕映えに輝いている。
その茜色の陽を背に受けて。
女がひとり、橋の西詰に立っているのが見えました。
「オヤ――」
ト、遠助が思ったのも無理はない。
茜色の衣をまとって、長い黒髪を垂らしている。
片手で褄を取っているところまで、瀬田の女とまるで同じで。
異なるのは、衣の色のみでございます。
遠助が恐る恐る近づいていくと。
夕日に包まれた茜色の衣の女は。
まるで、黒髪と陰になった黒い顔だけが。
虚空に浮いているように見えた。
「見ましたね」
黒髪と黒い顔が、咎めるように遠助に言った。
「いえ、見ていません」
己は――という意味で、遠助は答えた。
黒い顔に、怒気がこみ上げているように思われた。
「酷いことをしてくださいました」
遠助は、絹で包んだ箱を茜色の衣に向かって差し出した。
茜色の衣はそれを強く押し返しまして。
「もはや受け取ることはできません」
と言ったきり、夕陽の中に溶け入るようにして、消えてしまった。
遠助は桐の箱を懐に収めて、馬に乗りましたが。
道中、どうしても気持ちが落ち着きません。
やがて、日はすっかり暮れきって、夜となる。
月も星も出ない闇を、トボトボと帰っていきました。
家に帰ると、妻は気を取り戻していましたが。
もはや、遠助にはどうでもいいことで。
ただひとつ知りたいのは、一体箱の中に何を見たのか、ト。
それを問い詰めるべく、口を開くか開かぬかのうちに。
妻は夫を見てワナワナと震えだし。
聞いてくれるなとでも言わんばかりに。
両手で懸命に遮っている。
遠助はもう面倒になり。
妻を特にはばかることもなく。
懐から、絹に包まれた桐の箱を取り出しますト。
包みを解き、蓋を開け、中を覗いて見ました――。
そこには、くり抜かれた人間の目玉が七、八個と。
根元から引きちぎられた男の陽物が二本。
跳ねた鮮血が黒く固まってこびりついている。
それがまた、妙に生々しい。
妻がまず先に悲鳴を上げ。
遅れて遠助も卒倒する。
翌朝、妻は鳥の鳴き声に目を覚ましましたが。
夫は倒れたまま、目覚めようとしない。
その時、夫の顔に異変を見出して。
妻は三度目の悲鳴を上げた。
夫の顔からは両の目玉がくり抜かれている。
まさかと思い、衣を脱がせてみるト――。
この数年間、待ちあぐねていた夫の陽物が。
根元から引きちぎられてなくなっていたという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(「今昔物語集」巻二十七第二十一『美濃国紀遠助値女霊遂死語』ヨリ)