どこまでお話しましたか。
そうそう、自邸に逗留する名高い尼僧の長風呂を訝しく思った桓温が、密かに様子を伺おうと考えるところまでで――。
その晩。
月が雲間より出たのを確かめて。
桓温は忍び足で湯殿へ向かう。
コツコツと嫌でも鳴る我が沓音に。
桓温は思わず生唾を呑み込んだ。
名高き高僧とはいえ、女人であることに違いはない。
しかも、見目麗しいときております。
考えようによっては、尼僧にしておくのが惜しいとさえ言える色形。
その女人の裸身を覗きに行こうとしている己――。
遠からず、玉座に就こうとする者が。
いや、それ以前に一家の長たる者が。
己は一体、何をしているのだろうかト。
桓温は、後ろめたさを感じないわけではございませんでしたが。
そんな逡巡を瞬時に吹き飛ばしましたのは。
湯殿の外に立つ、見覚えのある男の影で。
背伸びをして、格子窓から中を必死に覗こうとしている。
倅の桓玄でございます。
桓温は憤慨し、背後から抜き足で忍び寄りますト。
首根っこをひっ捕まえて、物陰へ倅を引き摺っていった。
「愚か者ッ。わしの跡を継ぐべき者が、女人とは言え、国中から尊敬を集める高僧の風呂を覗くとはッ」
桓玄は、まさかその父が尼僧の風呂を覗きに来たとは知りませんから。
「ひぃーッ」ト一声あげて、逃げるように走り去っていきました。
桓温はしばらくその場で立ち尽くしている。
「いや、違う。俺はただ、王者たるものとして、あの気力の源が知りたいのだ――」
そして再び。
コツコツコツと月夜に響く。
大司馬の小さな小さな沓の音。
倅が立っていた格子窓の下に。
父親も同じように立ちまして。
背伸びをして、格子の隙間から中を覗き見る。
ト、そこには月明かりに照らされた白い肌――。
だけではございません。
キラリと一閃、光る白刃。
大司馬は思わず息を呑む。
尼僧の雪のように白い裸身。
その手に何故か、鋭い刀が握られている。
するト、次の刹那。
尼僧はおもむろに刀を腹に突き立てた。
餅のように弾む白い肌が、すーっと縦に割れました。
ドクドクと紅汁のような鮮血が流れ出てくる。
白い餅が紅に染まる。
ト、尼僧は刀を投げ出しまして。
両手でかわるがわる、己の臓物を取り出し始めた。
桓温は言葉も出ない。
かと言って後へ引くことも出来ず。
ただ、吸い込まれるようにして。
その凄惨な場面を見つめている。
ひざまずいた尼僧の前に、血塗れの臓器が並べられる。
もう出るものも出尽くしたのではないか。
ト、思われたその時。
尼僧は再び、刀を手にし。
己の首根っこにあてがいますト。
躊躇なく、スパっと斬り落とした。
血しぶきとともに、ゴロリと転がる、比丘尼の首。
これには大司馬も思わず、
「あッ――」
ト、だらしなく声を漏らした。
しかし、まだ終わりません。
首のない比丘尼は次に、己の両足を。
股の付け根から一本、また一本ト斬り落とす。
さらに、肩の付け根から。
左腕を斬り落としますト。
最後に、右手で刀を右脇に挟み。
刀をグルッと回転させて。
残った右腕も見事に斬り落とした。
床に転がっていた首が、
「うッ――」
ト、呻き声を上げる。
その表情は、いつも長風呂の後に見る。
例の憔悴しきった表情で。
その首が、格子窓の隙間から覗く桓温を。
いつしか睨みつけていた。
「分をわきまえぬ者は、いつか必ずこうなるのです」
首はそう言って、静かに目を閉じました。
その目と口元に、うっすらと浮かぶ不気味な笑み。
桓温はいたたまれなくなりまして。
その場を黙って去りました。
その後、簡文帝に禅定を迫った際。
桓温はこの時の首の笑みを思い出し。
最後は、求めに応じなかった幼帝の意を。
黙って受け入れたそうでございます。
あの時、父に物陰へ引きずり込まれ。
件の光景を目にしなかったろう倅の桓玄は。
後に、安帝より帝位を簒奪し。
国号を楚として、みずから皇帝を称しましたが。
わずか三ヶ月後に、玉座から引きずり降ろされまして。
逃走中にあえなく惨殺されたトいう。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(六朝期ノ志怪小説「捜神後記」巻二ヨリ)