こんな話がございます。
両国広小路にずらりと居並ぶ茶店の中に。
「いろは」ト申す流行りの店がございまして。
その看板娘は、名をお藤ト申す十九の別嬪でございます。
お藤をひと目見たさに、客が江戸中から集まってくるほどで。
そんな野郎客どもの淡い恋心をあざ笑うかのように。
このお藤にはしっかりと、旦那というものがございました。
母親ぐるみ、柳橋の家にとうの昔から囲われている。
母娘が贅沢な暮らしを送れるのも、みなこの旦那のお陰でございます。
評判の茶屋娘を囲っているのは、どんな男かト申しますト。
横山町で道具屋を営んでいる、萬屋清三郎ト申す分限者です。
金はあるが、色の生ッ白い、ぶよぶよと肥えた男でして。
お藤はこれを「水瓶へ落ちたおまんまッ粒」ト、実は大層嫌っている。
その日は昼頃からぽつぽつト雨が降り出しまして。
お藤と母は早くに店をしまい、家に引きこもる。
二階に上り、母娘で昼間から差しつ差されつ。
イヤ、結構な暮らしがあったものですナ。
おっ母さんは早々に酔ってしまい。
先に寝るからト階段を降りていく。
残されたお藤はひとり、窓から雨の降るのを眺めながら。
募る憂鬱に、はァッとため息をついている。
ト、そこへ――。
――都より辰巳にあたる宇治の里
山のすがたもにこやかに――
どこからか聞こえてくる、一中節(いっちゅうぶし)の艶ある唄声。
お藤は思わず、身を乗り出す。
その視線の先、雨脚の強まりつつある路地を。
もう唸るのもやめて、小走りに駆けてくるひとりの若い男の姿。
「ちょうどいいところへ降ってきてくれたもんだが、この濡れ鼠じゃなあ――」
ト、お藤の家の軒先で、ぼそりト呟いたその男は。
一中節の三味線弾きで、菅野松五郎という二十六の色男。
水も滴るいい男とは、まさにこのことでございましょう。
見かけたお藤が二階で胸を高鳴らせているとはつゆ知らず。
ぶつぶつ言いながら、中へ声をかけるのを躊躇しているその訳は。
常に己につきまとう、元武士としてのイヤな負い目からで。
芸人に身をやつした我と我が身を、どうしても卑下せずにはいられない。
かつて松五郎は、とある武家屋敷に暮らしておりましたが。
兄の起こした不始末のため、母とともに追われておりました。
食うためになんとか身につけたのが、この一中節で。
今では芸もよし、人間も堅いと評判を得まして。
あちらこちらのお座敷から、声がかかるようにまでなった。
「そうだ、傘を借りよう」
思いついて松五郎は、玄関の戸をガラリと開けた。
するト、それを待っていたかのように。
二階からお藤の声がする。
「どなたです?」
松五郎はその声にドキッとしながらも。
「ああ、俺だよ。お藤ちゃん。なに、ちょいと傘を借りようと思ってね」
松五郎にとってお藤は表向き、妹分のような仲として通っている。
「なんだ、兄さんですか。何を水臭い。傘だけ借りて行ってしまうだなんて。どうぞお上がりくださいよ」
「そうかい。それなら――」
ト、松五郎は渋々を装って、階段をトントンと上がっていく。
「おや、旦那は来ていないのかい」
松五郎は、片付いた部屋でひとり銚子を傾けているお藤を見て。
さも意外そうに言いました。
お藤の方ではほろ酔い気分を装いまして。
いつになく、いたずらっぽく笑みを浮かべる。
「あんな、ぶよぶよしたおまんまッ粒。旦那なんかじゃありませんよ」
「なんだい、今日はやけに悪く言うね」
「あたし、そろそろいい人に縁付きたいと思ってるの。いつまでも人様に世話をされてるのは嫌ですから」
「誰かあてでもあるのかい」
「おっ母さんが、松五郎さんに紹介してもらえって」
酒の力を借りたお藤が。
トロンとした目で松五郎を見上げる。
いつしか窓の外は激しい大降りで。
遠い雷鳴が徐々にこちらに近づいてくる。
薄暗い部屋。
激しい雨音。
轟く雷鳴。
二人は少しずつ互いの間を縮め。
ついに一つになりました。
――チョット、一息つきまして。