どこまでお話しましたか。
そうそう、妾のお藤に男がいたことに気づいた旦那の清三郎が、松五郎を呼び出し、いびり倒して出ていくところまでで――。
運の悪い時はとことん悪いものでして。
松五郎に出くわした清三郎は、憂さ晴らしに幇間二人と吉原へ繰り出しましたが。
気が立っていたからか、花魁にも振られっぱなしで。
翌日は朝から、草加屋という料理屋の二階で酒を飲んでいる。
「オヤ、旦那。外をご覧なさい。向こうから歩いてくるのは、お藤姉さんじゃございませんか」
やけ酒をあおっていた清三郎は、その声に顔を上げかけましたが。
何だか癪に障るので、敢えて押し黙って仏頂面を決め込んでいる。
一方のお藤はと申しますト。
これは何も嫌な旦那にわざわざ会いに来たわけではない。
この先の葭町(よしちょう)にある佃長(つくちょう)という店で。
松五郎と会う約束になっていたものでございます。
「姉さん、姉さん」
幇間の吾朝が、二階の窓から声をかける。
気づいたお藤は、知らぬふりをして通り過ぎようとする。
そこへ、その行く手を阻むように、店から吾朝が出てきました。
「姉さん。来ると思ってましたよ。旦那に詫びを入れに来たんでげしょう。いや、隠したってわかってます」
何だかんだと言いくるめて、お藤を二階へ連れて行ってしまった。
清三郎はお藤から顔を背けている。
かと言って、お藤も一緒に意地を張っているわけにもまいりません。
仕方なく、お酌をしながら、早く帰してくれないかトやきもきする。
ところが、清三郎はちびちびとやるばかりで、ろくに顔も合わせません。
こうなったらト、お藤は一計を案じまして。
早く酔わせて喧嘩をふっかけ、追い出されようと考えついた。
「昨日はお女郎のところへ遊びに行ったんでしょう。わざと焼き餅を妬かせるようなことばかりして、嫌な人」
ト、むくれてみる。
ところが、清三郎はこれをお藤が本当に妬いていると勘違いをいたしまして。
すっかり機嫌を直して、楽しく酒を飲み始めた。
お藤は、松五郎を待ちぼうけにさせているのではト、気が気でない。
その頃、松五郎は一足先に約束の佃長に来て待っている。
お藤が遅いので、案の定こちらも気を揉んでおります。
そのうちに待ちきれなくなって、使い屋をお藤の家に遣りました。
柳町のお藤の家では、おっ母さんが一人で酒を飲んでいる。
そこへ突然、ドンドンドンと戸を叩く音。
「すみませんがな。お藤さんはこちらにいらっしゃいますかな」
「また、来やがったな。太鼓持ちめ。お藤はいないよ。いたってお前たちには渡さないよ」
おっ母さんは少しく酔っている。
「困りましたな、どうも。葭町で旦那がお待ちなんですがな」
ト、使い屋が言ったのは、自分を雇った松五郎のことでございます。
「何が旦那だ。大した男でもないくせに、むやみに旦那風を吹かせやがって」
おっ母さんは、てっきり清三郎の取り巻きの幇間が来たと勘違いしている。
散々に毒づいて、使い屋を追い返してしまいました。
「何かの間違いだろう」
話を聞かされた松五郎は、何のことやら呑み込めない。
いつも人となりを褒めそやしてくれる、きっぷの良いおっ母さんです。
酔ったとしても、そんなことを言うはずがございません。
これは何か事情があるに違いないト。
松五郎はみずからお藤を迎えに行きましたが。
途中、通りかかったのが、件の草加屋で。
二階から聞こえてくる嬌声に。
ふと顔を上げて見てみますト。
お藤が清三郎と戯れているのが見えました。
松五郎は呆然として立ち尽くす。
我知らず唇を噛み締めている。
「あら、松五郎さん。お座敷ですか」
店の女将が見かけて、声をかけました。
「二階に来ているのはどんな客です」
声を押し殺して松五郎が尋ねる。
「横山町の道具屋さんでねえ。お相手はあの『いろは』のお藤さんですよ」
「お藤をちょいと呼んでください」
「――あ、あら。ご存知でしたの」
女将は二人の仲など知りませんから。
訝しがりながらも、言われるままお藤を呼んだ。
「お藤さん、一中節の松五郎さんがお呼びですよ」
呼ばれたお藤はてっきり、松五郎が察して助けに来てくれたものだト。
喜び勇んで、二階座敷を出ていきましたが。
この時、素直に表の階段から降りれば良いものを。
まさか松五郎が表玄関からやってこようとは。
思ってもおりませんでしたので。
慌てるあまり、裏梯子から転げるように降りていきまして。
下駄をつっかけ、旦那から逃げるようにして。
恋しい男のもとへ走っていった。
――つもりでございました。
その様子を見ていた松五郎は。
いよいよ馬鹿にされたと思い詰め。
所詮、己はしがない芸人にすぎないト。
打ちのめされて一人向かうは、柳橋のお藤の家。
「帰れ、帰れッ。お前なんかに娘はやらないよ」
使い屋の言ったことは本当だったと確信いたしますト。
うなだれて家に帰りまして。
その晩はふて寝を決め込むつもりでございましたが。
惨めな男はどうしても寝つかれません。
隣の部屋で病弱な母上が、寝返りを打つ音がする。
その気配を感じた瞬間に、なんとも言えぬ切なさがこみ上げてきた。
ガバッと起き上がった松五郎は。
箪笥の奥から、武士の魂を取り出しまして。
数年ぶりに腰に差しますト。
母親を一人残して家を飛び出し。
これから五人の男女を斬り殺しに向かうという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(落語「お藤松五郎」ヨリ。一名ヲ「今戸五人切」「川柳(かわやなぎ)宇治の村雨」ナドトモ云フ)