どこまでお話しましたか。
そうそう、村人たちの念仏供養によって、累の亡魂が成仏したところまでで――。
本復したはずの菊が再び苦しみ始めましたので。
父の与右衛門と夫の金五郎は、さてはまた累かと慌てだす。
すわ一大事ト、こけつまろびつ村中を走り回り。
和尚や名主など、主だった者たちを呼んでくる。
菊はト言えば、これは以前にもましての苦しみようで。
五体は煉獄の如き大熱を発し。
両の目玉は金魚のように飛び出さんとする。
のたうち回ることは、焚き火に放り込まれた猫のよう。
駆けつけた村人たちが、人垣を作って見守っている。
「さすがに今度ばかりは、菊の命も危うかろう」
他人事のようにつぶやく村人たちに囲まれまして。
改心した与右衛門は、心の底から救いを求める。
「どうか娘の命をお助けくだされ。償いが足りぬと言うなら、悔い改めます。後生でございます」
ところが、苦しむ菊の姿を見た、法蔵寺の和尚は。
にわかに疑念を抱きまして。
騒ぎ立てる与右衛門や村人たちを制するト。
落ち着いた様子で問いかけた。
「今、ここで菊を責め苛む者は、確かに累であると申すのか」
与右衛門も村人たちも、暫時言葉を失った。
「ですが、和尚様。累でなくて、一体誰が菊に取り憑き、責め苛むと言うのでしょう」
「そう考えるのももっともだが、累は成仏したと申すではないか。菊もその姿をしっかり見たと言っている」
「それはそうでございますが――」
「まずはこの者が累であるかどうか、確かめねばなるまい」
そう言うト、和尚は突然、哀れな菊の髪をむんずと掴みまして。
鬼か、夜叉か、はたまた不動かという形相で。
菊の顔を乱暴に引き寄せると、ぐっと睨みつけました。
「お前は菊か、累か。どうじゃ、返事をせい」
菊は返事をいたしません。
ただし、和尚に鬼の形相で睨まれたためか。
飛び出さんとしていた目玉が、徐々に引いていくのがわかりました。
ト、和尚がすかさず、髪をぐいっと引っ張って。
大音声で怒鳴りつける。
「人がものを聞いておるのに、返事をせぬとは何事じゃ。このまま、貴様の長い髪で絞め殺してくれるぞッ」
ト、菊の黒髪を首にぐるぐる巻きつけて、縛り上げようとする。
与右衛門も金五郎も村人たちも、息を呑んで見守っている。
するト、やがて――。
「ス」
一座がにわかにざわめきました。
「何だと。聞こえぬぞッ」
「ス――、ケ――」
するト、一座の中でもっとも年老いた老婆が。
突然、わっと泣き声を上げた。
「どうした、婆さん。どうして、泣く」
和尚が尋ねますト、老婆は救いを求めるように。
「そ、それは助(すけ)ト申す童子でございます」
「助とは何者だ」
「芋を洗いに行くト申して絹川土手へ行ったきり、帰ってこなかったのでございます」
「童子と申したな」
「はい。ですが、もうかれこれ六十年前の出来事でございます。生きていれば私と同様、六十八の爺さんのはず」
和尚はそれを聞いて、菊の方へ向き直り。
「助とやら。そなたに尋ねよう。そなたは誰かに殺されたのだな。誰に殺された。申してみよ」
ト、優しく語りかけつつ、ぐいっと髪の束を手繰り寄せる。
「ヨ、ヨエ――、モ――、ン――」
菊ならぬ助が苦しそうに呻いた。
「なにッ、与右衛門だと」
和尚も一同も驚いた。
無論、与右衛門自身も呆気にとられております。
「待て、助や。与右衛門は六十年前、まだ生まれておらぬはずだ。どうして、そなたを殺し得よう」
するト、再び老婆がうわっと泣き声を上げた。
「――こ、この与右衛門ではないのです。助を殺し――いや、殺させたのは、先代の与右衛門。すなわち、助の父でございます」
みなが老婆を見つめている。
和尚は老婆に歩み寄り、諭すように尋ねました。
「婆さんや。お前は何か知っているのだな。それが助の供養になるのなら、ここですっかり話しておしまい」
老婆はすすり泣いておりましたが。
和尚の言葉に覚悟をついに決めまして。
ゆっくりト、語り始めました。
「先代の与右衛門が、まだやもめであった頃のことでございます。隣村から妻を娶りました。その妻には先夫との間に男の子がおりまして、これがとても醜い顔をしておりました。それが、ここにいる助でございます。助はかてて加えて、足が悪い。与右衛門はこれを心底嫌いまして、『こんな子どもは捨ててこい、さもなくば子を連れてこの家を出ろ』と迫りました。『子を捨てる藪はあれど身を捨てる藪はなし』と申しましょう。困った女房は悩んだ挙句、助を連れて絹川土手へ参りますと、我が子を濁流の中に突き落としたのでございます」
はらはらと涙を流す老婆に、和尚がそっと問いかけた。
「婆さんは、助と親しかったのだろうな」
老婆は答えられずに、ううっと呻き声を上げる。
やがて、落ち着きを取り戻し、再び語り始めました。
「その後、夫婦は仲睦まじく暮らしましたが、やがて女房が子を孕みました。ところが、生まれてきた子は女の子ながら、助にそっくりでございます。あれほど醜い子どもが二人と生まれるはずがない。これは助の生まれ変わりだと、大人たちが噂していたのを覚えております。その女の子というのが、とりもなおさず累でございます。累(るい)と名づけられたものを、人々が累(かさね)と呼びましたのも、『助が重ねて生まれてきた』と揶揄したものでございます。それが証拠に、歩き始めた幼い累は、助と同じく足が不如意でございました。その累が後に、同じ与右衛門を名乗る者に絹川へ突き落とされましたのは、かえすがえすも因果の報いでございます」
人々は老婆の告白をじっと黙って聞いていた。
和尚はふと菊の方を振り返る。
「助や。そなたも成仏したかったのだな」
いつしか、その表情は和らいでおり。
助の呵責もやんでいた。
菊の顔に得も言われぬ笑みが広がり。
コクリと小さく頷きました。
助が菊の体を借りて発した言葉は。
結局、「与右衛門」のたった四文字で。
そのわけを鑑みますに、おそらくは。
己がまさか母に殺されたとは。
決して認めたくなかったのだろうト。
人々はそう語り合いました。
六十年の長き歳月を経て。
秘められた因果が明らかにされ。
これにより、絡み合う怨みと罪障とが。
ようやく消滅したという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(仮名草子「死霊解脱物語聞書」ヨリ。鶴屋南北ノ歌舞伎「色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)」、三遊亭圓朝の落語「真景累ヶ淵」ナドノ原拠ナリ)
コメント
こうして長い間田舎に身を置いておりますとそんな話もあるのではないかと考えていますのが不思議ではなくなってくる妙な気持ちになるものでございます
都会の喧騒の中でも、同じような気持ちにふと陥る時がありますね。