どこまでお話しましたか。
そうそう、橋の上で出会った女童が、化け物と化して追いかけてくるところまでで――。
恐ろしい妖怪の姿に、火麻呂は思わず縮み上がりましたが。
馬の尻に塗っておいた油が功を奏し、何とか逃げ切ることが叶いました。
ところが――。
「このまま逃げ切れると思うなよ」
背中に投げかけられる鬼の声。
火麻呂はビクッと肩をすくめる。
すでに夜も更けた頃、ようやく、ほうほうの体で館に逃げ戻りますト。
仲間の若侍たちは、立ち騒ぎながら火麻呂の元へ駆け寄りまして。
「どうした、どうした」
ト、口々に尋ねる。
ところが、火麻呂は鬼の最後の言葉を聞いて以来。
まるで魂が抜けたように呆然としてしまっている。
仲間もさすがに異変に気が付きまして。
みなで火麻呂を介抱しはじめる。
国の守も心配してやってくる。
そこでようやく、火麻呂も気を取り戻しまして。
いま見てきたことをすっかり語って聞かせました。
「詰まらぬことで命を落とすところだったな」
ト、国の守は鹿毛を火麻呂に取らせました。
火麻呂は一転、誇らしげに胸を張りまして。
馬を引いて家に帰っていきました。
驚いたのは、妻子眷属で。
そこで火麻呂は今日起きた出来事を、武勇伝として語って聞かせました。
それが仇を成しましたものかどうか。
それから、家に不祥が続く。
陰陽師を頼んで見てもらいますト。
「これから幾日後に、きっと大きな禍いがある。その日は必ず家に籠もって物忌みをいたすよう」
とのことでございましたので。
当日は門戸を厳重に締め切りまして。
家の中でじっと息を潜めておりましたが。
よりによって、こんな日に。
訪ねてきた者がある。
陸奥守に従って、母とともに東国へ下っていた胤違いの弟。
「兄さん、どうしたんです。開けてください。私です」
「今日は物忌みの日だ。悪いが、他へ泊まって明日また来てくれ」
「私一人なら他所へも行きましょうが、供をいくらか連れてきているのです。それに――」
ト、弟が急に声を沈ませましたので。
「それに――なんだ」
ト、火麻呂も気になって問いかける。
「母上が、亡くなりました」
「何だと」
陰陽師が言っていた禍いとはこれだったのか、ト。
火麻呂は今になって気付かされたことを恥じまして。
ともかくも、禍いが起きてしまったからには仕方がない。
これ以上、物忌みをする理由もございませんから、弟を招き入れました。
遠い奥州の地での母の暮らしを、ずっと案じていた火麻呂でございます。
弟から事情を聞き、二人で涙を流しておりましたが。
このやりとりを御簾の内から妻が聞いておりますト。
どういう食い違いが起きたものか。
兄弟が突然、くんずほぐれつ争いだした。
つかみ合いながら上になり、下になる。
妻は驚いて、夫に尋ねます。
「これは一体、どうしたのです」
火麻呂は妻の問いには答えずに、
「いいから、そこの太刀を取ってくれ」
「何を言うんです。あなたの弟じゃありませんか」
「違うッ、こいつはッ――」
ト、言うか言わぬかのうちに、組み敷かれていた弟が兄を押し返し。
馬乗りになるや、兄の首根っこにがぶりと食らいつきました。
食いちぎられる火麻呂の首。
妻が唖然と見守る中。
弟は躍るように逃げ去っていく。
その去り際に。
ふと振り返り。
見せた笑みは。
いとけない女童のそれであったという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(「今昔物語集」巻二十七第十三『近江國安義橋なる鬼 人を喰う語』ヨリ)