こんな話がございます。
よく三歳までは神のうちナドと申しまして。
幼な児はいつ死んでもおかしくないからト。
こう解釈したりいたしますが。
本当のところはそればかりが理由ではございません。
まだ前の世で己が何者だったのか。
忘れきっていないからトも申します。
越後国の山あいを流れるとある谷川に。
嘉吉ト申す渡し船の船頭がございました。
この者は貧しいながらも実直でございます。
夜遅くになっても、まだ川に竿を差している。
――オラがやァー若いときィ
弥彦詣りをしたればなァー
ナジョが見つけて寄りなれと言うたども
かかあがいたれば返事がならぬ
ハァ、ヨシタヤ、ヨシタヤ――
ナドと独り身の寂しさを唄で紛らわせながら。
月明かりだけを頼りにいたしまして。
たまに来る客のために、こちらの岸からあちらの岸へ。
スイーッスイーッと船を渡します。
「こちらは渡し場でございますな」
ト、不意に背後から問いかける者あり。
分かりきったことを何故問うのかト。
振り返り見れば、それもそのはず。
杖を突き突き、座頭が覚束ない足取りで向かってくる。
「オヤ、これはこれは。さあ、落ちるといけないから私の手を取りなさい」
船頭の嘉吉は、座頭の体を支えて船に乗せてやる。
ト、その時、相手の懐に妙な感触を覚えました。
「相客はおられないようですな」
さすが盲人に夜目などハナからないようで。
座頭は船に乗り込むや、己ひとりトすぐに悟った。
妙にしわがれた声で嘉吉に問う。
「おや、私ひとりなのにもう出ますか」
「どうせ待っていてもこんな夜更けに川を渡ろうと言う人はござんせん。行ってまた帰ってくればいいんで」
「そいつはどうも。気楽でいい」
座頭がニタリと笑います。
船がスイーッと動き出す。
「時に、旦那。こんな時分に川を渡ろうとは、よっぽど急ぎの用ですかい」
「なに、それはあなたが目明きだから、そう考えるのでございましょう。私どもにはお天道様もお月様も大して変わりはございません。むしろ世間の人が出歩かない時分のほうが、ほれ、こうして船も空いている」
嘉吉は流れに竿を差しながら、
「ほう。それでは旦那は、よっぽどの人嫌いと見えますな」
ト、何気なく探りを入れてみる。
「いや、おみそれしました。さすがに毎日様々な客と相対しているだけはある。いかにも、私は人嫌いで。盲の僻みでもございましょうが、人と話していると何かこう、弱みに付け込まれるような気がしてしまっていけません。ですから渡し船に乗るなら、ひと気のない夜が一番です」
ト言って、座頭はまたニタリ。
谷あいの川はゆったりト。
二人の男を運んで流れていく。
白い月影が夜空を青く染めている。
「だ、黙れッ」
ト、突然。
震え声で凄んだのは。
船頭の嘉吉でございます。
「お前がこんな時分に船に乗ったのは、そんな理由じゃなかろうが。さあ、ここは深い淵のど真ん中だ。渡すも流すも俺の胸次第。懐からあるだけみんな出せ。大金を隠し持っているのは分かってる」
座頭の表情が一変する。
歯の根がカチカチと合いません。
ズッ、ズッと後ずさりをいたしますが。
船の上とて、もう逃げ道はどこにもない。
「あ、あなた――。今、刀を抜きましたな」
実直ト評判だった嘉吉の手に。
握られているのは懐から抜いた守り刀。
ブルブルと刃先が震えている。
「ええい、黙れ。出さねえなら、いっそのことこうだ」
嘉吉はみずからを鼓舞するようにして。
目を瞑ったまま、座頭の腹へ短刀をズブリ。
途端に真っ赤な鮮血が吹き出し、額へビシャッ。
「うぅッ――」
ト、一声漏らしたきり。
座頭はあっけなくガクリ。
嘉吉は肩を弾ませながら。
ホッと息をつきましたが。
座頭の流した鮮血が。
いつまでも止まろうといたしません。
たちまち船上は血の海となる。
「ヒ、ヒイィィィッ」
ト、悲鳴を上げるその間にも。
どくどくト吹き出した血が迫ってくる。
嘉吉は手桶で川の水を掬っては。
真っ赤な血をせめても薄めようとぶちまけますが。
船頭を失った船は木の葉のように。
青い夜の谷間を川下へと流されていきました。
――チョット、一息つきまして。