どこまでお話しましたか。
そうそう、実直と評判だった船頭の嘉吉が、大金を隠し持った座頭を殺してしまうところまで――。
そのうちに船は平衡を失って転覆する。
ほうほうの体で嘉吉が岸へ泳ぎ着きますト。
船は水に洗われてまた元の通りに浮かんでいる。
座頭の亡骸はどこへか流されてしまった様子です。
ふと己の手を見やりますト。
座頭から奪った重い胴巻きを。
しっかりと握っておりました。
その金を持って嘉吉は逐電する――。
それから、歳月は夢のように流れまして。
越前国は敦賀湊に、立派な店構えの呉服屋がある。
主人は実直者と評判の、三好屋清兵衛ト申すお大尽。
ところが、誰にも知られぬその実体は。
越後の船頭、嘉吉その人でございます。
嘉吉はあれから商売に成功いたしまして。
造り酒屋の娘を嫁に迎え。
一粒種の娘にも恵まれる。
家族三人、仲良く暮らしておりましたが。
良いことはそうそう続かないものでございます。
まだ幼い一人娘を残したまま。
女房が病の床に伏しまして。
看病の甲斐なく、黄泉の客となりました。
それがケチの付け始めとなったかどうか。
次第に商売も傾きはじめまして。
嘉吉は五歳になったばかりの娘の手を引いて。
故郷の越後へ帰っていきました。
あれから十二年の歳月が経ち。
己が人を殺めた川の流れは変わりませんが。
その畔に住む人々はすっかり様変わりしておりました。
嘉吉は当時住んでいたのと変わらぬような。
掘っ立て小屋を見つけて住み着きまして。
以前のように渡し船の船頭をしながら。
川魚や畑のものなどで娘と二人食いつなぐ。
そんなある日の暮れ方のこと。
嘉吉は川で大きな鯉を捕まえまして。
喜び勇んで家へと帰っていく。
家の中では幼い娘が、父の帰りを待っている。
「サトや。今晩は鯉こくだぞ」
久しぶりのご馳走で、娘を喜ばせようというつもりでございますが。
母を失ってからというもの、サトは沈みがちでございまして。
嬉々とした父の呼びかけとは裏腹に。
娘はただ黙って出迎えるのみでございます。
「まあ、いい。すぐに作ってやるから、待っていろ」
ぴちぴちと威勢よく跳ねている大きな鯉を。
まな板の上に載せるト、観念したのか静かになる。
これがいわゆる「まな板の上の鯉」トいうやつで。
嘉吉は包丁を取り出しますト。
その静かになった鯉の腹に。
ズブリと切っ先を差し込んだ。
途端に吹き出る真っ赤な鮮血。
ドクドクドクと逗まることを知らずして。
まな板の上がたちまち血の海になる。
くらくらと嘉吉はめまいがする。
我知らず、あの晩の凶事が脳裏をよぎる。
――ト。
「ととさま――」
不意に娘のサトが呼びかけた。
「――小便」
嘉吉は夜風にでも当たって気を取り直そうと。
いつものようにサトをおぶって外に出る。
月のいやに白く冴えた晩でございます。
「おお、さぶい。お前、寒くはないか」
ト、問いかけますが、娘は黙って答えません。
「そろそろいいだろう。さあ、お降り」
嘉吉がしゃがんで降ろそうとするト。
サトが待っていたように言いました。
「もっと」
ト言って背中から突き出された小さな指が。
前方はるか遠くを指している。
求められるままおぶって進んでいくト。
やがて川端に出てまいりました。
「もういいだろう」
「もっと」
「なんだ。川の中でするのか」
仕方がなく求められるまま。
父は娘を背負って、川へじゃぶじゃぶじゃぶ――。
「もういいだろう」
「もっと」
嘉吉もさすがに困ってしまい、
「これ以上入ったら、深みにはまって流されちまうよ」
ト言ったその刹那にその言葉が。
またもやあの日を思い出させる。
嘉吉はしばし娘を背に負ったまま。
ついつい忌まわしい追憶に。
我が身を浸しておりましたが。
悪夢から嘉吉を呼び覚ましたのは。
娘の声ではございません。
「お前が俺を殺したのも――」
妙にしわがれた男の声。
「――ちょうどこんな晩だったな」
嘉吉はハッとして振り返る。
娘がものも言わずにじっとこちらを見ております。
「――なんだ、空耳か」
そう思って、ホッと安心したのもつかの間。
背中の娘が。
徐々に徐々に。
重くなる。
「重い――。固い――。地蔵のようだッ――」
背中の我が子を振り払えずに。
父は次第に前のめりになり。
己が人を殺めたその淵に。
静かに沈んでいったという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(諸国ニ伝ハル民話ヨリ。夏目漱石「夢十夜」中ノ第三夜、落語「もう半分」等ノ原拠ト云フ)