どこまでお話しましたか。
そうそう、己の命を救った坂崎出羽守との再縁を拒んだ千姫が、その祟りのために夫の中務大輔を失うところまでで――。
若くしてご後室(未亡人)トなられた千姫様は。
黒き長髪を半ばにバサリと切り落とし。
天樹院と号して、夫の菩提を弔う日々を送ります。
その頃、番町に三千坪の空き地がございましたため。
ここに御殿を建ててお住いとされました。
これはもと、吉田大膳亮(よしだ だいぜんのすけ)ト申す旗本の屋敷でございまして。
その跡地へ建てたことから、俗に吉田御殿ト称えるものでございます。
さて、この頃、江戸市中では妙な唄が流行っておりました。
――吉田通れば二階から招く
しかも鹿の子の振り袖で――
かの坂崎出羽守の怨念のなすところでございましょうか。
はてまた、一人寝の寂しさに御心の乱れたためでございましょうか。
まだ三十にもならぬ女ざかりの天樹院様は。
日がな御物見に上がられては、道行く人々を眺めて暮らし。
中に佳い男があれば、女中に命じて屋敷へ引き入れる――。
いつしか、そんな噂が立つようになりました。
牛込の牡丹屋敷ト申す粗末な長屋の一隅に。
与吉ト申す貧しい小間物屋が住まっておりましたが。
これが大層な美男子でございまして。
どこへ商いに行っても、女客たちからとても大事にされている。
「これ。そこな商人」
ちょうど番町の屋敷屋敷を回っておりますところへ。
通用口から覗くように声をかけてきた女中がある。
「その方は何を商っておる」
「へ、へえ。ご覧の通り背負い荷を売り歩く小間物屋で」
「求める品がある。ついておいでなさい」
「いえいえ、こちら様でお求めになるような結構な品などございません。歯磨き楊枝に竹の皮の草履が関の山で」
「良いからついておいで」
言われて中へ入ると、途端に門がバタリと閉まる。
待ち受けていた品の良い老女が、与吉を見て静かに頷いた。
「よう連れてまいった」
「岩藤様。今日こそは逃すまいと骨を折りました」
「それでは例の通りに身繕いをしておやりなさい」
岩藤ト呼ばれる老女に促されて。
女中が与吉を奥へ案内する。
与吉はうぶでございますから、吉田御殿の噂など露知りません。
このお屋敷に誰が住まっているかもよく知らない。
訳が分からぬまま風呂に入れられ、髪を結い直され、上物の着物を着せられた。
「なるほど、お上はやはりお目が高い」
「こうして磨いてみると、たいそう美しゅうございます」
老女はぽかんとしている与吉を立ち上がらせて。
「さあ、その唐紙を開けて中へ入りなさい。お上がお待ちじゃ」
「ちょっ、ちょっと待ってください。さっきから、お上とは一体誰です」
「天樹院様である」
「て、天樹院様――」
与吉は天下の大将軍の姫君が、どうして自分を待っているのか知る由もない。
震えながら唐紙を開けるト、そこは一面の大広間。
奥のしとねに世にも美しい貴人がひとり、座している。
余りの恐れ多さにガタガタ震えだす与吉を見て。
天樹院は匂うような笑みを零しながら。
「与吉。近う寄れ」
与吉は畳に額をこすりつけるようにして、呼ばれるまま前へ進み出る。
天樹院が目で合図をするト、並び居る女中のひとりが盃に酒を注いで与吉に渡す。
衆人環視の中で与吉がようようそれを飲み干しますト。
「その盃をこれへ持て」
与吉が口をつけた盃で天樹院が同じように酒を飲み干した。
何度もこれを繰り返しているうちに。
与吉も徐々に目の前が回り出す。
気づけば白羽二重の夜具の中。
天井から紗の蚊帳が釣られていた。
黒塗り骨の水団扇でソヨソヨと風を送りながら。
伏し目がちにこちらを見下ろしている麗人は。
他でもない天樹院でございます。
「与吉。今宵より伽を申し付ける」
そうして奇妙な夜は更けてゆき。
二晩、三晩ト重ねるうちに。
与吉もすっかり骨抜きになる。
この御殿には庭に大きな池がございまして。
その向こうには築山がございます。
水を含んだ涼しい風が、与吉の頬を撫でていく。
「うーむ。いい風だ」
与吉はかつて己がしがない小間物屋だったことなど。
すっかり忘れて秋の日暮れに佇んでいる。
そこへ、築山の後方から鴉がカアカアと。
鳴きながら五、六羽飛んでまいりましたが。
バサリと何かを与吉の足元に落としていった。
拾い上げてみるト、イヤにじとじとと濡れた黒いもので。
「ヤヤッ。これは、髪だぞ。――男の髻の毛だ」
びっくりしてその場に投げ出しましたが。
怖いもの見たさとはまさにこのことで。
与吉は池を回って、かの築山に近づいていく。
裏手に回るト、大きな古井戸がございました。
その上空を鴉が一羽。
カアカア鳴きながら旋回している。
古井戸から嫌な匂いがプーンと立ち込めている。
片手で鼻を摘みながら。
もう片手で井桁に手をかけて。
与吉が中を覗いてみるト――。
そこには夥しい数の髑髏がうずもれておりました。
「手間が省けたぞ。与吉殿」
背後から投げかけられたその声は。
天樹院様お付きの老女中、岩藤の声に違いない。
与吉は振り返ろうといたしましたが。
何者か二人にすでに左右の肩を。
取り押さえられて身動きが取れません。
「天樹院様よりお暇が出た。長きの伽、ご苦労であった。今日までのお上のご寵愛、ありがたく思われよ」
与吉の首にヒヤリと冷たいものがあてがわれる。
「あッ――」
ト思う間もなく、首はすぱりト斬り落とされて。
井筒の中をゴロゴロと転がり落ちていきました。
「岩藤様。役者沢之丞ト申す男、身支度が整いましてございます」
女中が岩藤に知らせにまいりました。
「よろしい。それでは、お上にお知らせなさい。もう昼前から首を長くしてお待ちじゃ」
後に吉田御殿での乱行は、大公儀に知られるところとなり。
天樹院は発覚を恐れて屋敷に籠もった末、自害して果てたト申しますが。
その後、御殿は荒屋敷と化し。
夜な夜な古井戸から火の玉が飛ぶとの噂が絶えず。
ついに取り壊されることとなり。
後には一面の草むらトハなりましたが。
かようにして一度、更地にされた後に。
建てられたのが火付盗賊改、青山播磨守主膳のお屋敷で。
更地に建った屋敷であることから。
その名も更屋敷と呼ばれるようになり。
それがいつしか皿屋敷ト呼び習わされるようになる。
巡る因果は止められず。
千姫ゆかりの古井戸とともに。
青山主膳、腰元お菊の、恐ろしい皿屋敷の凶事を招くことになるという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(講談「番町皿屋敷」ヨリ)