どこまでお話しましたか。
そうそう、孤独な木こりの与市の家に見知らぬ女が訪ねてきたところまでで――。
甘い香りに包まれて。
夜は更けていきまして。
いつしか深い眠りに堕ち。
日も高く上がった頃に目を覚ましますト。
竈から煙が上がっている。
手拭いを姉さんかぶりにして。
娘が飯の支度をしておりました。
与市は寝ぼけ眼をこすりまして。
これは夢ではなかろうかト。
昨晩からの出来事を思い出しておりますト。
娘はまるで新妻のように。
椀にせっせト汁をよそっておりますので。
与市はふと不安になりまして。
「夜が明けたら、訳を聞かせてくれると言っただろう」
ト、さり気なく水を向けてはみましたが。
娘は目を伏せ、答えようとしない。
黙って椀を与市に差し出し。
再び目を伏せてしまいました。
与市は仕方なく椀を受け取りまして。
やはり黙って汁をすすりますト。
その音に娘は顔を上げまして。
晴れやかな眼差しでその様を見守っておりました。
そうして、また夜が来る。
夢のように更けて、また朝が来る。
与市は訳を再び問いますが。
娘はやはり答えようとしない。
それから三日も経ちますト。
与市も根負けいたしまして。
「分かった。もう訳は聞かない。その代わり、きちんと夫婦になろう」
娘が頬を紅に染めますト。
あの甘い匂いが肌からぷうんと漂った。
その晩は、二人きりでの祝言で。
何やら謎めいたままの娘との婚礼に。
一方では、まだ不安に思いながらも。
また一方では、「これで良いのだ」ト。
与市もまた、顔をにわかに赤らめました。
それから半年が経った頃。
女房はついに子を孕みました。
瞬く間に十月十日(とつきとおか)の月は満ち。
いよいよお産トいう日になる。
「あなた――」
「――何だい」
女房は何時になくそわそわとして。
夫を呼ぶと、じっとその目を見つめて言いました。
「私はお産は初めてですから、どうしても見苦しい姿を晒さないといけません。だから、ややが無事に生まれるまでは、決して中には入らないでくださいね」
「よし、分かった」
ト、与市は頷きましたが。
なにぶん、狭い家ですので。
元よりひと間しかございません。
それでも女房の頼みだからト。
家の外で腕組み、待っておりましたが。
やがて空はかき曇る。
遠い山の向こうに瞬く稲妻。
ドーンと谷間に轟く雷鳴。
激しく降り出した大雨に。
与市は慌てて軒下に駆け込んだ。
ト、女房しかいないはずの家の中から。
なにやら苦しそうな呻き声が聞こえてくる。
それはまるで嵐の晩に。
風が空を切るような鈍い音で。
与市はびっくりいたしまして。
もしや、女房の身に何か起きたのではないかト。
見るなトいう戒めもすっかり忘れ。
慌てて戸を開け放ちますト――。
「あッ」
ト、与市は声を上げた。
そこには、雪のように真っ白な。
大蛇がとぐろを巻いており。
その懐には、今しも産み落とされたばかりであろう。
血まみれの嬰児が産声を上げていた。
「どうして。どうして、あれほど言ったのに」
大蛇は与市を睨んでいる。
女房はどこにおりますのやら。
声はどこからともなく、家中に響いている。
呆気にとられて立ちすくむ与市をよそに。
大蛇はますます眼をひん剥いている。
眼尻をピクピクッ、ピクピクッと震わせて。
ぐりぐりッ、ぐりぐりッと目玉を動かしている。
ト、突然、卵でも産み落とされるように。
大きく盛り上がったかト思ったのも束の間。
その左の目玉がポロッと板敷きへ落ちました。
「子供が泣いたら、どうぞこの眼を舐めさせてやってくださいまし」
女房の声が響き渡る。
するト、大蛇は突如、凄まじい勢いで。
真っ白なその身をくねらせながら。
与市に向かってきたかト思いますト。
そのまま夫の脇を通り過ぎ。
激しい雨の中へト消えていった。
「お前ッ。どこへ行く――」
与市は雨に濡れるのも厭わずに。
妻の去った跡を追いかけていきますト。
その這っていった跡は森の奥深く。
豊かな水を湛える沼の中へト消えていた。
それから、与市は倅を男手一つで育てまして。
目玉はさすがに舐めさせるのは忍びなく。
桐の箱に収めて大事にしておりましたが。
ある時、貧しい家にも泥棒が入りまして。
大事な目玉が盗まれてしまった。
与市はがっくり肩を落とし。
しばらく悔し涙を流しておりましたが。
やがて、倅の手を引きますト。
二人で森の奥深くへ分け入りまして。
やってまいったのは、かの沼の前でございます。
「坊。おっかあを呼んでみろ」
倅はまだ三つでございますので。
何も分からぬまま、父に言われた通りに、
「おっかあ」
ト、大声で叫びました。
深い森に愛らしい声が。
隅々まで響き渡った。
辺りはやがて再び静まり返る。
墨のように黒い沼を。
倅が首を伸ばして覗き込む。
水の表に浮かんだ幼い顔。
ト、突然、その水面が波打ちまして。
大きな波濤とうねりだし。
その波の中から現れたのは。
片目の白い大蛇でございます。
与市はそのいたわしい姿を仰ぎ見て。
「お前。目玉を盗まれてしまったよ」
嘆くように女房に呼びかけますト。
大蛇は万事を心得たように。
眼尻をピクピクッ、ピクピクッと震わせて。
ぐりぐりッ、ぐりぐりッと目玉を動かしますト。
突然、卵でも産み落とされるように。
大きく盛り上がったかト思うも束の間。
片方しかない大蛇の目玉が。
ポロッと倅の手元に落ちました。
「あなた」
ト、どこからともなく響いた声は。
懐かしい女房のか細い声で。
「私はもう目が見えませんから、これからはどこかで鐘をついて、せめて刻でも知らせてください」
乞うような声でそう言いますト。
大蛇は水の底へと戻っていった。
その後、与市は近くの寺へ鐘を奉納しましたが。
どうしても与市には、ボーンボーンと鳴るその鐘の音が、
「坊、坊」
ト、我が子を呼ぶ母の悲しげな声に聞こえてならなかったという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(美濃ノ民話ヨリ)