どこまでお話しましたか。
そうそう、死の床に就いたお内儀が夫の情婦たるお雪を後妻に迎えよと遺言したところまでで――。
夫が承諾したのを見守りますト。
お内儀は続いてお雪をじっと見まして。
「私がこうして言い置きましたからには、安心するのですよ」
ト、優しく言葉を投げかけました。
「そんな心細いことを仰らないで。私が命に代えてでもお守りいたしますから」
お雪がそう申しましたのは全くの本心でございます。
己がこのまま後妻に収まることがありますト。
それがかえって気が咎めるように思われたからで。
そうしてお雪の懸命の看病の甲斐があってどうか。
お内儀はそれからしばらく持ち直したかのように思われました。
そんなある日の夕刻のこと。
「お雪や」
ト、お内儀がお雪を呼びました。
「はい」
お内儀はお雪の手を取るト。
「今日は思いの外、気分が良いようです。涼みがてら、観音様にでもお参りしようかと思います。どうか連れて行っておくれな」
ニコリと笑みを浮かべてそう申しました。
だいぶ持ち直したトハ申しましても。
外を出歩くにはまだ早いト思いましたが。
主人が留守をしていることもあり。
拒めばかえって障るのではト恐れもありまして。
「かしこまりました」
ト、お雪は病人の身を起こし。
痩せ細った手を引いて家を出た。
ところが、しばらく行きますト。
「お雪や」
「はい」
「私は何だか苦しいよ」
ト、息も絶え絶えにお内儀が申します。
「どうかおぶっておくれでないか」
お内儀の変調にお雪はすっかり慌てまして。
ここで何かあっては大事とばかりに。
小さな体にお内儀をおぶって歩き出した。
もう幾月も寝たきりだったお内儀は。
いつの間にか小枝のように痩せ細っている。
ト、その小枝のようなお内儀の二本の腕が。
しっかりとお雪の肩を掴んでおりましたが。
それが徐々に蜘蛛の手足のように伸びてくる。
段々と肩から胸へ向かっておりてきた。
ソロリ、ソロリ、ソロリ――。
「どうかなさいましたか」
お雪は何やら妙に思いまして。
背中のお内儀に尋ねました。
「なに、しっかり掴まっていないと落ちてしまいそうでさ」
お内儀は弱々しい声で応えます。
再びお雪は黙って歩き続けた。
「時に、お雪」
しばらく経って不意に呼び止めたその声が。
存外に低く凄んでおりましたので。
「はい」
ト、お雪はドキリとした。
「お前はお雪というくらいだから――」
「――はい」
小さな胸は高鳴っている。
首筋に感じる熱い吐息。
「乳房も――、乳房もさぞかし白いんだろうねえ」
答えに詰まったその刹那。
「あっ」
ト、お雪が声を上げましたのは。
お内儀の両手が二つの乳房をグッと掴んだからで。
「死んでも離すまいぞ、離すまいぞ」
凄むその声に怨みが篭もる。
肌に食い込む十の爪。
お雪は気を失ってしまいましたが――。
次に気がついた時。
人々がお雪の顔を覗き込んでいた。
「大変なことになった。大変なことになった」
主人が狂人のようにのたうち回っておりました――。
「――それで、それからどうなったんです」
尼僧の話に耳を傾けていた商家の人々が、話の先を促しました。
「奥様の両手は確かに死んでも離れなかったのです」
尼僧はそっとうつむいた。
「と、おっしゃいますと」
「奥様は私の乳房を掴んだまま、亡くなったのです。それが亡くなった後もどうしても離れませんから、居合わせた人々が仕方なく手首のところで切って引き離したそうなのですが――」
聴衆はみな息を呑んだ。
「――その手首から先が、やはりどうしても離れません。私は菩提心を起こし、こうして尼になりました」
若い尼僧は物語を終えますト。
するすると墨衣の紐を解きまして。
突然、前をはだけました。
「あっ――」
そこには、雪のように白く美しい乳房に。
干からびた二本の薄黒い鬼のような手が。
いまだに肩口から鋭く爪を立てており。
尼僧の乳房を、凄まじくも握りしめていたという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(「耳嚢」巻十『不思議の尼懺悔物語の事』ヨリ。小泉八雲「奇談」二『因果ばなし』ノ題名ニテ類話アリ)