こんな話がございます。
伊豆国熱海を、南東の海上へ去ること三里。
名を初島ト申す小島が、沖に浮かんでおりますが。
この島の開闢は、さる姫君の漂着から始まったトカ申します。
その昔、日向国に初木姫ト申す美しい姫がおり。
何の因果かこの島へ流されてまいりまして。
毎晩、無人の島から寂しく対岸を眺めましては。
焚き火を焚いて人の気配を求めておりました。
やがてこれに気づきましたのが。
伊豆山の伊豆山彦ト申す一柱の神。
さっそく姫は萩で筏を組みますト。
いとしい男神に相まみゆるべく。
どんぶらこ、どんぶらこ。
海を渡っていったトいう。
その育てた子らの末裔が。
今の伊豆山権現であるト申します。
さて、この初島の船着き場に。
遠く伊豆山を望むように立つ大きな松がある。
名を「お初の松」ト申しますが。
その由来にはこんな秘話がございます。
初島にまだ人家が六戸しかなかったころ。
そのうちの一軒に娘がひとりおりました。
名をお初ト申しまして。
年の頃は当年十七、美しい盛りでございます。
ところが小さな孤島には、同じ年頃の者がおりません。
お初は物心ついた時分から、おばばとふたりで暮らしてまいりました。
ざあああっ、さあああっ。
ざあああっ、さあああっ。
寄せては返す波の音。
磯辺にぽつんトおばばの姿。
せっせと天草(てんぐさ)を干し並べている。
じっと耳を傾けますト。
賑やかな笛ト太鼓の音が。
遠く海の彼方から。
聞こえてくるよな思いがする。
――ぴいひゃらら。
ぴいひゃらら。
ドンドン、デンデン。
ドンデンデン――
寂しいお初にもただひとつだけ。
胸が高鳴ることがございまして。
それが毎年春に執り行われる。
伊豆山権現の祭礼でございます。
その日ばかりはきれいに着飾りまして。
島の衆とともに、船を連ねて海を渡ります。
美しい巫女たちが舞を舞う。
勇壮な男たちが弓比べをする。
白装束に身を包んだ人たちが。
神輿を担いで練り歩く。
我が暮らしはト申せば、ただ海草と戯れるばかりの日々。
伊豆山の賑わいは、まるで別世界のようでございます。
年に一度の祭礼を、お初は楽しみにしておりました。
さて祭礼当日は、雲ひとつない青空で。
伊豆山権現の社には、すでに黒山の人だかり。
「ほら、あれをごらんよ」
「右近さまが弓を射るよ」
にわかに人々が沸き立ちましたので。
その視線の先をたどっていきますト。
片肌脱ぎの若い衆がふたり並び立ち。
今しも弓をいっぱいに引き絞っておりました。
ひとりは土地の百姓らしい。
穴ぐらから出てきたタヌキの如き粗末な顔。
もうひとりはト、目を転じますト。
これがその右近さまと呼ばれたお方らしい。
お初は思わず目を見張った。
切れ長の涼し気な目。
引き詰めた髪に、より細く見える細おもて。
はだけた肩も胸も、隆々としておりながら。
その白さはまるで都人のようでございます。
力強くも優美なその若武者の姿に。
お初はすっかり見とれてしまいました。
じりじりじりト、弓がしなっていく。
的を射抜くように睨むその眼差し。
お初は我がことのように息を呑む。
「ヤッ」
トいう一声とともに、右近が矢を放つ。
矢は唸りを上げながら飛んでいきますト。
見事、的の真ん中を射抜いて弾き飛ばした。
「ワッソ、ワッソ、ワッソ、ワッソ――」
参道の坂道を登ってくるのは。
地鳴りのような男衆の声。
白装束の男たちが神輿を社に担ぎ入れ。
群衆が囲むようにしてついてくる。
不意の喧騒に巻き込まれ。
慌てて元の場所を振り返りますト。
若武者はすでに人混みに呑まれておりました。
いや、そればかりではございません。
「お、おばば――」
気がつくト、おばばはおろか。
島の者が誰ひとり近くにいない。
――夕暮れ。
島の人たちからはぐれてしまいまして。
お初はひとり境内に立ち尽くしている。
このままでは島へ帰るすべがございません。
「おい、アマッコ」
藪から棒に肩を掴まれて。
ドキッとして振り返りますト。
そこに、例のタヌキが立っていた。
「おめえ、まだ相手がいねえんなら――」
ねとねとト汗ばんだ男の手。
ニッと開いた口には黄色い歯。
酒臭い息が吹きかかる。
思わず顔を背けますト。
若い男女がそこかしこで。
手に手を取って、肩寄せ合い。
藪へ消えていくのが目に入る。
「――おめえ、オラと遊べや」
お初は恐ろしくなりまして。
タヌキを振り払って駆け出していった。
「コラ、待て」
浜辺へト出る参道の坂道を。
お初は転がるように駆け下りていく。
ギュッと目をつぶり、歯を食いしばり。
ト。
ドスンと何かに突き当たりまして。
驚いて顔を上げますト。
そこにいたのは若武者右近。
優しくお初を抱き寄せますト。
藪の中へと逃げ込ませた。
知らずにタヌキが駆け抜けていく。
――チョット、一息つきまして。