どこまでお話しましたか。
そうそう、伊豆山権現の祭礼の晩にお初が偶然、若武者右近と遭遇するところまでで――。
朝。
朝もやに包まれた藪の中に。
小鳥のさえずりが響き渡る。
若武者の白くたくましい胸に。
うずめたお初の小さな顔。
お初は眠りから覚めてもなお。
右近の肌のぬくもりを。
頬に感じてまどろんでいる。
やがて目覚めた右近はト申しますト。
胸元のお初を一瞥はしましたが。
いくら美男でも男は男でございます。
身を起こし、そそくさト立ち上がった。
「右近さま」
すがるようにお初は呼びかけた。
「また、お会いしとうございます」
「ならぬ」
「どうして」
「祭は終わった」
右近は娘に目をくれようともせず。
着物についた土や木の葉をはたいている。
「これほどにお慕い申し上げておりますのに」
「女はみな左様に申す。いちいち信じておられるか」
「嘘偽りはございません」
「百夜通ってでも来なければ、信じはせぬ」
お初の頬を涙がつたう。
「通います。きっと通います」
あまりに思いつめておりますので。
右近はかえって煩わしく思った。
「お前、島の女だと申したな」
「左様でございます」
「ならば、こうしよう。お前がこれから百夜、海を渡って通ってきたなら――」
「通ってきたなら――」
「――その時はお前を妻に迎えるぞ」
夜。
崖からせり出した松の木を。
大きな月が照らしている。
その松の木の根元に立ちすくみ。
お初は遠い伊豆山をぼんやり眺めている。
権現様の常夜灯が、ほのかに瞬いているのが見える。
いとしい右近は、海を隔てた三里の向こう。
「あの火を目印にしていれば、女の腕でも渡っていけるんじゃないかしら――」
おばばが海草を採るのに使うたらい舟を。
お初は海辺に運び出しますト。
いにしえの初木姫もかくありなんト。
どんぶらこ、どんぶらこ、伊豆山目指して漕ぎだした。
ふと振り返るト、松の木の下に焚いた火がほのかに見える。
前方には遠い常夜灯の火がチラチラと見えているばかり。
他には何も見えません。
静かな夜の闇の中から、波しぶきが突然現れては打ち付ける。
寒さト恐ろしさト心細さトで、小さな体がぞくぞく震えた。
やっとの思いで岸にたどり着きますト。
お初はずぶ濡れのまま参道を駆け上がり。
持参した干し鮑を本殿に奉納しました。
これが百夜通いの証拠でございます。
こうしてお初は毎晩、決死の思いで海を渡る。
奉納された干し鮑も、日に日に数を増していきましたが。
やがてお初の百夜通いが、土地の人々の噂に上る。
するト、この噂がある男の耳にも入りました。
いとしい右近ではございません。
例のタヌキの百姓で。
「アマッコめ。オラの顔に泥を塗りおって。目にもの見せてくれるワイ」
それはお初がついに百個目の干し鮑を。
手にして漕ぎ出した晩のことでございました。
まるで最後の試練のように。
波はいつになく荒れておりまして。
雨雲が月明かりを覆い尽くしている。
頼れるものは権現様の常夜灯ばかり。
稲妻がピカリと光ったかト思いますト。
途端に桶をひっくり返したような大雨が降る。
小さなたらいは右へ左へ大きく揺さぶられる。
お初は全身に波をかぶって濡れ鼠でございます。
だけど、でも――。
この荒波さえ越えたらば。
いとしい右近の妻になれる。
その一心で前を見据え。
必死に舟を漕いでおりましたが。
「火、火が。権現様の常夜灯が――」
目印の火がパッパッパッと。
一つ一つ消えていった。
あたりはますます闇トなる。
荒れ狂う海が、生き物のように襲いかかる。
「見えない。何も見えない。う、右近さま――」
いとしいその名を必死に呼ぶが。
声は波ト嵐にかき消され。
雨ト潮トが無情に顔を打った。
やがて呑まれていく小さな躰。
哀れ、十七歳を一期トして。
お初は海の藻屑ト消えました。
己の戯れを真に受けて、お初が百夜通いをしたことを。
遅ればせながら、右近もようやく知るところトなりまして。
健気な乙女を弔うべく、諸国巡礼の旅に出たト申しますが。
どうしたことか、あれから七日七夜に渡りまして。
苦しみ続けたあげく、無残に死んだ男が別にあったという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(豆州初島ノ伝説ヨリ)