こんな話がございます。
平安の昔の話でございます。
在原業平(ありわらのなりひら)ト申しますト。
ご承知の通り、色男の総元締めみたいな嫌な奴で。
生まれは高貴にして、容姿は眉目秀麗であるばかりか。
美女に目がなく、狙った獲物は必ず手に入れるトいう。
天照大神に仕える伊勢斎宮でさえも。
神前にて潔斎中の身でありながら。
コロッと落ちてしまったトカ申します。
なんとも罰当たりな男でございますナ。
さて、この色男の業平にも。
肝をつぶす出来事がございまして。
ようやく我々も溜飲を下げられる。
これこそバチがあたったのだトモ申せます。
なにせ、このときモノにしようとした相手と申しますのが。
伊勢斎宮に勝るとも劣らぬお方でございまして――。
あるとき、右近の中将在原業平朝臣は。
ある人の娘が絶世の美女であると耳にした。
そうなるト、居ても立ってもいられないのが色男。
さっそく、あれやこれやト言い寄りはいたしましたが。
女の親兄弟もその点はあらかじめ心得ている。
「やんごとなきお方に差し出すつもりで育てている」
ト、すげなく業平を追い払った。
どんなお方かお分かりでしょうナ。
つまり、天子様に嫁がせようトいうのでございます。
ところが、これで懲りるような業平ではございません。
いったい、どんな手を使ったのかは存じませんが。
ついに、盗むようにしてこの女を手に入れてしまった。
天子様から奪い取ったようなものですから。
色男の驕慢もここに極まれりでございます。
男は女を背におぶい。
夜の野原を駆けていく。
父娘ほど年の離れたふたり。
男は激しく息切らせるが。
背中の女は押し黙っている。
男の肩にじっと掴まっている。
夜空にはたった一つの白い月。
闇を切り裂いていくふたりを映し出す。
京の外れの芥川。
申さば、小川のそのほとり。
小走りに駆けていく男の背中から。
女が初めて言葉を発しました。
「あれは、何ですか」
その指差す先には、月に照らされて。
草の上の夜露がひとつ光っていた。
――どうして、そんなことを聞くのだろう。
男は怪訝に思いはしたものの。
そのとき、ふと思いつきましたのが。
――なるほど、露と消えてしまいたいとでも言うのだろう。
肩にめり込む女の爪。
不安と羞恥に耐えているらしい。
だが、恥じらっているのも今のうち。
そうほくそ笑んで色男は。
何も答えずにただ走り続けた。
やがて、たどり着いたは山科の北。
追手を撒くべく立ち入ったのは。
荒れ果てた無人の山荘で。
その敷地に大きな校倉がありましたので。
中へ女を抱えて入る。
戸は破れてはおりましたが。
床の抜けた母屋よりはいくらかましで。
ここに畳を一枚引き寄せまして。
女をそこへ横たえますト。
もはや抗う素振りもない。
男は事に及ばんとする。
――チョット、一息つきまして。