どこまでお話しましたか。
そうそう、人の魂を抜き取って操る張奇神の噂を、江陵の書生呉が確かめに来たところまでで――。
呉はその晩。
宿の自室に燈火をともして妖を待つ。
きっと来る。
張奇神はここへきっと来る。
呉には確信がございました。
人前で辱めを受けたのだ。
私を害しに来るに違いない。
揺れる燈火が映す己の影。
初更(午後7時~9時)を過ぎ。
二更(午後9時~11時)を過ぎ。
三更(午後11時~午前1時)を過ぎても現れない。
燈火の下、呉はついうつらうつらトしてしまう。
影がゆらゆら揺れている。
ト、そのとき。
屋根の瓦を箒で掃くような。
さらさらさらト吹く風の音。
はっと気を取り直して天井を見る。
ト、仄暗い天井の左右の隅から。
二匹の大蛇が身をうねらせながら迫ってきた。
しかも、ただの大蛇ではない。
大きな蛇身が先へ行けば行くほどに。
人の姿と混じり合っていく。
女だ。
若い娘だ。
腹のあたりから鱗が妙に白んでいく。
白い鱗がふっくら盛り上がっておりますのは。
まごうことなき乳房でございます。
その先には白い鱗に包まれた。
女の顔がこちらをかっと睨んでいる。
陰にこもった二人の娘。
長い長い黒髪が。
白い女の肌から、緑の蛇身へと。
裸形を恥じらうように絡みついている。
そんな半人半蛇の娘たちが。
燈火に照らされた呉を遠巻きに。
身をのたくらせながら取り囲む。
白い肌から漂ってくる。
青臭い蛇の匂い。
呉の額ににじむ脂汗。
右を左をかすめていく。
娘姿の二匹の大蛇が。
赤い舌をシュッシュッと出し。
ときおり、呉の頬をピシッと打つ。
ところが、どうしたことか。
娘たちは遠巻きに身をのたくらせるばかりで。
それ以上近づこうとはいたしません。
呉は脂汗を拭った手を懐に当てた。
そこには書が一冊。
身を守るようにして
忍ばせてあった。
二匹の大蛇が、右から左から。
妖艶な女身で迫ってくる。
長い黒髪の間から。
漂う蛇の青臭い匂い。
ふたりの娘の白い肌が。
左右の頬へ迫ったそのとき。
呉は懐から件の書物を取り出した。
他でもない易経でございます。
かの国では邪を破るト信じられておりまして。
我が朝で申さば、さながら法華経を懐に入れていたようなもの。
呉は易経で己の顔を覆う。
聖経を間近にしたふたりの娘は。
かっと目を見開きまして。
苦悶の表情で固まりますト。
白い顔はグニャリと水飴のように醜く歪みだし。
白い裸体は干からびた漆喰のように崩れ落ちていく。
長い黒髪はごっそり抜けて溶けてしまった。
足元には二枚の紙切れがはらりと舞うばかり。
拾い上げてみると、それは紙人形で。
半女半蛇の妖物をかたどったものでございました。
栞代わりにちょうどいいト。
呉は二枚を書物の間に挟みました。
そして何事もなかったように。
異郷の夜は更けていく。
明け方。
表の戸をどんどんト乱暴に叩く音。
狂ったように泣きわめく。
年増の女がひとり立っている。
「娘が――。娘たちが――」
「どうしました」
「ここへやってはまいりませんでしたか」
「娘の姿の蛇なら来ましたが」
「それです。それがわたしの娘たちです。夫があなたを懲らしめようと、紙人形に憑けて送り込んだのです。このままでは、家に残された体が死んでしまいます」
呉は張奇神の姿を拝めるのではと期待して。
家までついて行きましたが。
そこには二人の若い娘が。
あられもない姿で横たわっているばかり。
いずれも白目を剥いている。
このまま死なせるには惜しい美貌だが。
かと言って助けてやる筋合いもない。
張奇神に会えないのなら、もう用はないト。
すがる女房を足蹴にして。
呉は故郷へ帰っていきましたが。
その帰路、ふと懐かしむように。
書を取り出して見てみますト。
そこに蛇身の栞はすでにない。
「もしや。女房がこの身にすがりついてきたとき――」
呉は意趣返しされたことにようやく気づいた。
「畜生。あの女も紙人形だったか」
臍を噛みはしたものの、知らぬ間の邂逅に人知れず苦笑したという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(清代ノ志怪小説「子不語」巻八『張奇神』ヨリ)