どこまでお話しましたか。
そうそう、戦国の武将浜田与兵衛の妻となった遊女但馬が、夫の帰りを待って寂しく孤閨を守るところまでで――。
さて、ちょうど同じその日のことでございます。
主君の義隆が本国へ下向されることとなりまして。
実は浜田もその日、すでに国へ帰っておりました。
昼間は一日中城内に詰めておりまして。
深夜になってようやく帰宅が叶いましたが。
浜田の屋敷は城外にある。
雲に覆われ月も出ない。
心許ない闇の中を、トボトボと歩いておりますト。
草むらの中に陣幕を打ち巡らし。
篝火を掲げているのがぼんやり見えた。
見ると、男女が十人ばかり、酒宴に興じている様子。
「月も出ぬかような夜更けに、いったい何奴が酒宴など。しかも、見慣れた顔でもない。ムッ、胡乱」
ト、近くの柳の木陰に身を隠し。
密かに覗いておりましたが。
「ムッ、ムムッ。但馬――」
なんと、留守宅を守っているはずの我が妻が。
一座の中に混じって楚々たる笑みをこぼしている。
浜田はあまりのことに言葉を失い。
呆然として妻の様子を見守っている。
すると一座の中のひとりが立ち上がり、
「今宵は実に惜しいことですな。せっかくこうして集まったものを、月がこう暗くては。どうです、但馬殿。ひとつ得意の歌でも詠んではいただけませぬかな」
「いえ。わたくしなど、とても――」
ト、妻は遠慮をいたしますが。
是非に是非にト乞われまして。
当惑気味に一首詠む。
――きりぎりす 声もかれ野の 草むらに 月さえ暗し 殊更に鳴け
(この枯野の草むらにいるこおろぎも、もう声がかれるほどに鳴(泣)いただろう。だが今夜は月も出ない。なおいっそう鳴(泣)くがよい)
心にしみるその歌に、一同はじっと耳を傾けて聞いている。
さて、一座の中に年の頃十六、七の少年がおりましたが。
まだ酒が飲めぬと見えて、人々が勧める盃を受けようといたしません。
「これこれ。座が白けるような真似をしてはいかん」
弱りきった少年は、但馬の顔をちらりと見やるト。
「では、この奥方がもう一首詠んでくださったら飲みましょう」
ト、苦し紛れにこう言った。
但馬はますます弱ってしまい。
首を振り振り許しを請う。
「いいえ、とてもとても。もう先程のようなものは出てまいりません」
しかし、一座の者どもも許しはしない。
但馬の盃に酒をなみなみと注ぎ。
無理に飲ませて囃し立てる。
「さあ、若き殿方が貴女を待っている。見れば年の頃もお似合いではござらぬか。さあ、さあ」
困り果てた但馬は仕方なく、また一首詠みました。
――ゆく水の 帰らぬ今日を 惜しめただ 若きも年は 止まらぬものを
(いつまでもこの悦楽に浸っていてはいけません。人はみな止めどもなく老いてゆくのですから)
さあ、こうなるト一座の興は止まらない。
少年の盃に酒を注ぎ、但馬に歌を歌わせる。
今度は今様(いまよう)を謡えと囃し立てますので。
――寂しき閨(ねや)の独り寝は
風ぞ身にしむ荻原や
そよぐにつけておとずれの
絶えても君に恨みはなしに
恋しき空に飛ぶ雁に
せめて便りをつけてやらまし――
(独り寝の寂しさ。身にしみる風。荻原がそよぐ音に、あなたかとふと振り返る。知らせが絶えて久しくなるが、決して恨みはいたしません。あなたを想って見上げる空。飛んでいくあの雁に、せめて便りを運ばせたい)
すっかり酒に呑まれた少年は。
うっとりト但馬を見つめている。
但馬はそれに気づきますト。
ハッと頬を赤らめまして。
その眼は虚空を泳ぎだした。
その表情のなんとも美しいこと。
浜田は木陰から覗く妻の美しさに。
嫉妬と羨望に駆られている。
篝火に照らし出された妻の戸惑い。
ただじっと見つめている少年の目。
若い二人の眼差しが。
しきりに行き交っておりましたが。
すると、この様子を見ていた老人が。
突然、盃を手に握りしめて立ち上がり。
「人の妻たる身が、なんたるふしだらな」
ト、力いっぱい投げつけた。
盃は但馬の額に当たりまして。
白い肌をパクっと割りますト。
赤い血がツーっと垂れだした。
但馬は大きな悲鳴を上げる。
その声を合図にいたしまして。
一座の者は上を下への大騒ぎ。
蜘蛛の子を散らしたように。
またたく間にどこかへ消えてしまった。
浜田はひとり取り残される。
暗い枯野に風が吹く。
「これは、いったい――。もしや、妻の身に何かが――」
浜田は胸騒ぎがいたしまして。
一目散に屋敷を目指しましたが。
帰ってみると、妻は寝床に臥している。
物音にはっと目を覚まし、夫の姿を認めますト。
「あなた――」
ト、勢いよく起き上がって、駆け寄ってくる。
そのまま恋しい夫の胸に飛び込みました。
むせ返るほどに火照った体。
ひどい寝汗に濡れている。
額に貼り付いた乱れ髪。
血も傷跡もございません。
「いま、とても怖い夢を見ておりましたの」
そう言って身を震わせますト。
急に安堵したのでございましょう。
はらはらト涙が零れていった。
その涙のたぎるよな熱さ。
怯えて震えるその撫で肩。
図らずも妻の夢の中に迷い込んだことを。
浜田はようやく悟りましたが。
妻の恐怖の訳を思うと。
それが夢の中での出来事だけに。
さすがの剛の者もやるせない思いに駆られてならなかったという。
そんなよくあるはなし――。
もとい、余苦在話でございます。
(「伽婢子」巻三の一『妻の夢を夫面(まのあたり)に見る』ヨリ)