こんな話がございます。
有名な累ヶ淵(かさねがふち)の話でございます。
与右衛門の幼い娘、菊の体に。
二十五年前に殺した先妻、累(かさね)の怨霊が取り憑いたらしいとの噂は。
たちまちに村中を駆け巡りまして。
老若男女がこぞって与右衛門の家にやってくる。
「菊よ、菊よ。どうしてそんなに苦しんでいる。一体、何が起きたのだ」
ト、村人たちが、分かりきったことを尋ねます。
「菊ではない。私は累だ。二十五年前、夫与右衛門に絹川へ突き落とされ、無残に殺された醜い怨霊だ。与右衛門を連れてこい。法蔵寺におるぞ。恨みを晴らすのだ。これ以上、苦しみの中を巡り続けたくない。晴れた心で輪廻の苦しみから逃れ出るのだ」
そう言って、菊の体は実に苦しそうにのたうち回る。
村人たちは、もはや疑うべくもないと感じ、法蔵寺へ急ぎました。
「お、俺が女房を殺しただと。馬鹿を言うな。き、狐か狸に化かされているのに違いねえ。しっかりしろ、皆の衆」
ト、喚き立てる与右衛門を、若い衆数人で取り押さえまして。
みなで担ぐようにして菊、イヤ、累の待つ家へ連れていく。
「背中に豆のついた枝をたくさん背負わせて、絹川土手へ連れて行っただろう。汚れているから手を洗えと、私を川の前へかがませただろう。そうして後ろから突き落として、ぶくぶくと沈んでいくのを黙って見ていたろう。必死で浮かんできた私を、鎌で切りつけただろう。え、与右衛門。どうだ、白状しないのか」
娘の菊が、父与右衛門をぐっと睨みつける。
「む、娘が、気が違ってしまった。皆の衆、うちの菊は気狂いになってしまいました。どうか、大目に見てやってくだされ」
しどろもどろに弁解する与右衛門を、菊が歯ぎしりしながら一喝する。
「与右衛門ッ。誰も見た者がないと思って、逃げおおせようというつもりか」
「見るも見ないも、してもいないことをどうして見られようぞ」
「では、呼ぼう。報恩寺村の清右衛門殿ッ」
一座のもっとも後ろで、窺うようにして見ていたある男が。
突然、名を呼ばれて思わず肩をすくめました。
「貴方は私が殺されるのを、今はもう死んだ甚蔵殿と一緒に見ておりましたろう。見て見ぬふりをしたことを今さら咎めるのではございませぬ。ただ、与右衛門が私を殺したと、見たまま語ってくだされば良い」
みなが一斉に清右衛門の方を振り返る。
今はもう白髪の老人になった清右衛門が。
観念したように、小さく頷きました。
それを見て、さしもの与右衛門も。
同じく観念したように。
がっくりとこうべを垂れました。
「累や、お前の夫与右衛門もこのように前非を悔いておる。そろそろ気も晴れたろう。もとより菊には何の罪もないではないか」
苦しむ菊に寄り添いながら、名主の三郎左衛門が累に呼びかける。
菊が苦しそうに口を開き、その口から累の言葉が語られる。
「なるほど、それも道理だ、名主殿。しかし、私が菊を苦しめなければ、こうして村中の者が集まってくることもなかったろう。また、与右衛門を問い詰め、二十五年前の罪を認めさせることもなかったろう。菊の体を苛めたがゆえに、私の怨みを晴らす機会が得られたのだ」
「では、どうすればお前の怨みは晴らされるのだ」
「そのことだ、名主殿。今度、私が菊の体を借りてこの世に現れ出たのも全てこのため。私を哀れと思うなら、是非、私のために念仏供養をし、村に石仏を一体建ててくだされ。私が無事に成仏すれば、菊が苦しむこともなくなろう」
そこで村の人々は、相談いたしまして。
法蔵寺の和尚を呼んで、大念仏会を執り行う。
村中の者たちが一日中、累のために念仏を唱え続けました。
するト、いつしか菊の苦しげな表情も和らいでいき。
目を覚ました時には、元の幼い娘に戻っていた。
それから村中で金を出し合いまして。
累の要望通り、石仏を一体建立する。
与右衛門もすっかり改心いたしまして。
和尚のもとで剃髪をし、半聖半俗の身となった。
目を覚ました菊のもとには、村人たちが群がりまして。
累の怨霊に取り憑かれていた間、お前の心神はどこへ言っていたのかト。
娘の気持ちもお構い無しで、矢継ぎ早に問いかける。
「私は気が付きますと、累というその女に連れられておりました。累は色が黒く、片目が潰れ、酷いあばた面で、それは恐ろしい形相をした老婆でした。累は私の手を無理に引っ張っていきますと、大きな剣山の上に置き去りにして去ったのでございます」
「待て。それは、剣山地獄ではないのか」
村人たちは、一様に顔を見合わせて驚いた。
説法にばかり聞いていた地獄を本当に巡り。
生きたまま帰ってきたと言うのでございますから。
人々が驚くのも無理はございません。
「して、お前はどのようにして戻ってきた」
「はい。そのような恐ろしいところを幾箇所も巡らされているうちに、徐々に妙なる歌声が聞こえてまいりました」
「――なるほど、我々の念仏だな」
「すると、広い野原を抜けた向こうに、荘厳な門構えの建物が見えてまいりました。美しい木々や草花、芳しい香りに包まれて、私はうっとりいたしました。美しい声をした女の人が、ここは何処かと門番に聞きました。ここは極楽の入り口だと門番が答えたその相手を、私が振り返って見てみますと、それは他でもない、先程の累でございました。黒い肌は雪のように白く、目の傷もすっかり癒えています。あばたは跡形なく消え去って、すっきりとした美しい女に変じておりました。そうして、私を見て優しく微笑み、手を取って門の方へ誘います。私もまた、吸い込まれていくような気持ちでいると、そのうちにまた目が覚めました。気がつけばみなさんが顔を覗き込んでいたのです」
人々は、あの世に地獄と極楽とが実際にあることを知るにいたり。
以前にもまして、熱心に信心するようになる。
菊もすっかり本復いたしまして。
問われるまま、人々にあの世の様子を語って聞かせます。
こうして幾日かが過ぎまして。
これで終われば、めでたしめでたしでございますが。
それで終わらないのが、このお話の恐ろしいところでございます。
それから数日後、再び菊が苦しみだした。
――チョット、一息つきまして。
コメント
こうして長い間田舎に身を置いておりますとそんな話もあるのではないかと考えていますのが不思議ではなくなってくる妙な気持ちになるものでございます
都会の喧騒の中でも、同じような気持ちにふと陥る時がありますね。