こんな話がございます。
陸奥国は遠野ト申す地に。
男盛りの猟師が一人おりまして。
名前を嘉兵衛ト申しましたが。
この嘉兵衛が山へ猟に出た時のこと。
一日中、山を歩き回っても獲物は見つからず。
銃の掛け紐が肩に重くめり込みます。
歩き疲れて足はすでに棒のよう。
がっくりうなだれ、山を降り始めたのが薄暮れ時で。
不意に目の前の笹原を撫でるようにして。
風がさらさらト音を立てて、通り過ぎていきました。
嘉兵衛はその風に誘われでもしたように。
何の気なく顔を上げて見ましたが。
その風を向かい撃つかのようにして。
こちらへ向かってくる髪の長い女がひとり。
背中に嬰児(みどりご)をおぶっている。
色の白く、美しい女でございます。
子供を結いつけた襷(たすき)は、藤の蔓。
着物は常の縞模様でございますが。
裾のあたりが尋常でないほどに破れている。
それを、何を思ったのか、木の葉を集めて縫い付けています。
そんな異様な風体の女をよく見てみますト。
まるで笹原の上を歩くように、地に足もつけずこちらへ向かってくる。
嘉兵衛はびっくりして、銃を向けた。
女はそれを見てすっと立ち止まりまして。
岩の上に立ち、しばらくはただ呆然と。
己の黒き長髪を梳(くしけず)っておりました。
嘉兵衛は震える手で銃口を女に向けている。
額から冷や汗を垂らしている。
ト、その時。
「あ、あなた、嘉兵衛さん――」
突然、女が顔色を変えまして。
気まずそうな表情を浮かべますト。
思わず知らず口を突いたように出ましたのが。
他でもない、嘉兵衛の名前でございました。
名を呼ばれて嘉兵衛もはっとする。
「だ、誰だ――」
「私です。隣の家に住んでいた――広(ひろ)でございますよ」
「ひ、広だと――」
よく見れば確かに面影がある。
嘉兵衛にしても忘れはしない。
久しい以前、ものに憑かれて姿を消したと言われている。
隣の家の娘、広に違いございません。
あれからおよそ二十年。
ふたりともすっかり大人になった――。
嘉兵衛と広は幼馴染でございました。
二人はともに野を駆け、ともに歌い、ともに成長しましたが。
やがて年頃になり、互いを意識するようになりますト。
娘は自身の成長のより早いのを恥じらうようになり。
若者は娘とは反対の意味でそれを恥じるようになる。
二人はやがて、顔を合わせても、言葉をかわさなくなっていきました。
そんなある日の終わりでございます。
空は群青に染まり、白銀の月がいやに明るい晩でございました。
嘉兵衛は広を想い、夜風にひとり吹かれていた。
するト、その想いが通じましたものかどうか。
隣の家の表戸が、ザッザッと小さく音を立てて開いた。
「広――」
ト、嘉兵衛は、思わず声を上げそうになりましたが。
そんな勇気はやはりなく、夜陰に紛れてじっと黙っておりました。
愛しい人は気づきもしない。
ただ、月明かりに誘われるようにして。
静かに一歩、また一歩と歩みを進めていく。
まるで夢見たまま歩いているようにすら見えました。
「こんな夜更けにどこへ行くんだ」
嘉兵衛は不思議に思いましたが。
何か自分には分からない秘密のようなものが。
女にはみな、あるのではないかという気がいたしまして。
声もかけられず、ただ黙って見守っておりましたが。
それが後に悲劇を生むことになろうとは。
この時はよもや思いもいたしませんでした。
――チョット、一息つきまして。
コメント
ほんと怖いですよ!
夜読めない・・・
子ども向けのお話も知りたいです(笑)
林間でお話だ!
ありがとうございます。
普段自分で怖がることはないので、
こうした反応を教えていただけると本当に嬉しいです。
今後ともよろしくお願いします。