こんな話がございます。
平安の昔の話でございます。
うら寂しい夜の通りを。
男がひとり歩いている。
年の頃なら三十ばかり。
背丈はスッと伸びるように高く。
頬の髭は少し赤茶けている。
侍格好の逞しき男児でございます。
「気味の悪い晩だ」
ト、男がふと嘆いたのも無理はない。
その視線の先。
中空に赤銅色の月が浮かんでいる。
雲一つない闇夜に浮かびあがる。
鉄塊がくすぶったような色の丸い月。
輪郭に白い光を僅かに残し。
徐々に闇に蝕まれていく。
今宵はいわゆる月蝕でございます。
「ええいッ」
男はこの何やら不吉らしい気分を振り払うように。
肩をブルブルッと震わせると、力強く歩を進めていった。
ト――。
「チッチッ、チッチッ」
どこからか、鼠でも鳴くような。
イヤ、人が舌でも鳴らすよな。
そんな妙な音が聞こえてくる。
ふと見るト、通りに面した家の半蔀(はじとみ)の中から。
白く艶めかしい腕がニュッと伸びている。
その手が男を招きます。
「――どなたですかな」
「何も問わずにいらっしゃい――」
男はその声にふっと魂を掴まれたような心持ちになる。
まるで童女のように清らかな声音でございますが。
その調子には、何か有無を言わさぬ気迫がある。
同時に何か暖かく見守るような笑みがある。
男は魅入られたように押し戸を開き。
屋敷の中へ入っていった。
部屋に上がるト、そこに御簾が下ろされている。
上げた半蔀から月明かりが差し込んで。
女の容姿を浮かび上がらせている。
「はて。月は今しがた、闇に蝕まれたばかりのはずだが――」
男は奇妙に思いながらも。
もはや、そんなことがどうでも良くなりましたのは。
御簾の中に座した女の、まばゆいばかりの麗しさのためで。
年の頃は二十歳ばかり。
白くみずみずしいかんばせに。
黒い髪を床まで垂らしている。
娘がちょこなんと座してこちらを見ている。
男は、つい見とれて立ち尽くしている。
女は、不意にニコリと笑う。
神女にいざなわれるようにして。
男は女と共寝をした。
ドンドンドン――。
ドンドンドン――。
気を失ったように眠っていた男の。
夢を覚ますような荒々しい音。
男はハッとして目を覚ます。
横にはあの女が眠っている。
やはり夢ではございません。
外では誰かが門を叩いている。
他に誰も居ないので、男は意を決して門を開けてやる。
現れたのは、侍らしき男ふたりト、女房らしき女ひとり。
下女を伴って屋敷に入ってまいりますト。
蔀を下ろし、明かりを灯し、二人の前に食事を並べ始めました。
女に促されて、男は食う。
女も品を保ちながらもよく食べます。
食べ終わるト、女房が器を下げて去っていった。
そうして再びいざなわれる男。
「この女――。何者だ」
男は訝しく思わぬでもないが。
女の肌ト髪の香りに、ウッと包まれてしまいますト。
もう、どうでも良いではないかトいう気持ちになり。
終わることのない情欲の波に。
身を委ねきっておりましたが。
やがて、朝になるト。
さすがに不安が波濤トなって。
心に押し寄せてまいります。
ト、その波濤に乗って現れたのは。
昨晩とはまた異なる男女の従者。
蔀を上げ、床を掃き、食事を二人に供します。
あれよあれよト、また夜になる。
そうこうして、それから幾日も。
昼となく、夜となく。
同じような時が繰り返されていきましたが。
ある時、女の従者らしき男たちが。
糊の利いた装束を持って現れますト。
男に着させてくれました。
すっかり男は亭主の体(てい)で。
「図らずも、こんな仲になってしまいました」
一つ衣を夜着にして。
共にくるまる男と女。
女は男の胸に手を当てて。
しおらしくそんな言葉をつぶやきますト。
「こうなっては、もう離れられません。生きるも死ぬも私の意のままに――」
ト、迫るように男を見た。
「ああ、いいとも」
男はつい、そんな安請け合いをする。
「その言葉、決して偽りはございませぬか」
刺すようにそう念を押されまして。
男は思わず冷やりとした。
――チョット、一息つきまして。