こんな話がございます。
悪人磯貝浪江の奸計に陥り非業の死を遂げた絵師、菱川重信の怪談噺でございます。
気のついた正介の語ったところに従いまして。
住持が檀家らをともない、落合へ行ってみますト。
果たして正介の語った通り、重信が血に染まって倒れている。
知らせを受けた妻のおきせは、無論、誰の仕業か知るよしもないが。
己も脛に傷持つ身でございますから、何となく分かるような気もしなくもない。
しかし考えるだに恐ろしく、口に出せずにおりました。
浪江は浪江で、こちらはまだまだ腹に一物がございますから。
己がやったとはまさか言いはいたしません。
師匠の仇は己が探し出し、真与太郎にきっと討たせましょうト。
果ては、助太刀をする、後見人になるナドとだまくらかし。
ついに、己がおきせの後添えにまんまと収まった。
夫を殺された女と、殺した仇と――。
これぞまさに因果同士でございます。
これにひとり胸を痛めましたのは正介で。
お内儀の変心にやるせない思いがいたしますが。
そのお内儀を後家にしたのは、他ならぬ己であるという。
針のむしろに座す心地で、その年も暮れていきました。
さて、あれから一年が過ぎまして。
七月の初めのことでございます。
おきせが、酸っぱいものを食べたがるようになった。
九月に入ると、乳がすっかり止まってしまいました。
どうやら、浪江の子を孕んだ様子でございます。
するト、真与太郎はまだ二歳でございますから。
母の乳が出ないのをむずかって、夜泣きがどんどんひどくなる。
浪江はうるさくてたまらない。
ある日のこと、浪江は正介を連れて亀井戸の料理茶屋へやってきた。
「だが、正介。一年が経つのは早いものだな」
「な、浪江さん。あんまり大きな声を出すでねえ」
正介は浪江と差し向かいでいるのも気が気でないところへ。
あの晩の話題を切り出すものですから、ぞっと冷や汗をかいた。
「なに、誰も聞いてなどおらぬ。お前のお陰で邪魔者を消して、首尾よく跡を継ぐことが出来た」
「わ、わしはただ――」
「いいのだ。そのことを蒸し返そうと言うのではない。実は、おきせがとうとう我が胤を宿してな」
「ご新造が」
「そうだ。そこで、お前に折り入って頼みがある」
「な、なんだね」
身を乗り出してくる浪江の顔を、正介は息を呑んで見返した。
「どうも真与太郎の目つきが気に食わない。あの目はいつか俺を親の仇だなどとつけ狙う目だ」
「ば、馬鹿を言っちゃあいけねえ。二つやそこらの乳飲み子に、目つきも何もありましねえ」
「お前、あれを殺せるだろう」
途端に正介の胸がドッと高鳴った。
「お、お前様。いけましねえ。いけましねえ。あんな頑是ない坊ちゃまを――」
「なんだ。嫌なのか。ははあ、なるほど。お前、去年の落合の件では余儀なく加担したが、心ではまだ元の主人への忠義があるものと見える。さては、いつか俺を仇と狙うに違いない。さもなくば、今の話を他へ口外する気だろう。ええい、致し方あるまい」
ト、またぞろ刀の鯉口を切ってみせますので。
正直者の正介は、途端にブルブル震えてしまう。
浪江はそれを見て、得たりとばかりにほくそ笑み。
「いいか、よく聞けよ。お前は、帰っておきせにこう言え。乳が出ないのでは真与太郎が可哀想だ。ちょうど、自分が乳母のなり手を知っているからとな。そうして、真与太郎を連れて四谷の十二社(そう)へ行くのだ。あそこには鬱蒼と生い茂る森の中に、一丈三尺(4m)にもなるとてつもない大滝が落ちている。谷の下は深い滝壺だ。そこへ真与太郎を放り込んでしまえ」
あまりのことに正介は。
蛇に睨まれた蛙のように。
口をぽかんと開けたまま。
身じろぎもできずにおりましたが。
「お、お前さん。なんと恐ろしい――」
ト、ようやく絞り出したきり、あとの言葉が続きません。
「滝壺の下はみな岩だ。恐ろしく高いところから幅四間(7m)もの水が落ちてくる。子供の死骸なんぞ木っ端微塵に砕けて、跡形もなく消えてしまう。お前が殺したなどとは誰も気づきはしまい。どうだ」
浪江の左の指先は。
まだ鯉口に掛けられており。
右の五本のゴツゴツした指は。
ギッと刀の柄を握っていた。
――そして、その日の夜四ツ(午後十時)。
昼間のうちに柳島を出た正介は。
真与太郎を抱き、腰にはなまくら刀を差しまして。
重い足取りで休み休み、ようやく四谷角筈村までやってくる。
大きな杉の木が何本もこちらを見下ろしており。
遠くからはドウドウと滝の落ちる音が聞こえます。
時は九月の末。
月は木の間へ冴え渡る。
滝の音は木霊に響き。
梟の鳴き声が物凄い。
正介は真与太郎を胸に抱き、大滝の前までやって来る。
下を覗き見れば、滝の水が岩に砕け散り。
木の間から漏れた月にきらきら照り映える。
「おお、坊ちゃま。今になって泣いちゃいけねえ。もう乳はねえだよ。おお、ほらほら――」
ト、慣れぬ手つきであやしながら。
これからこの子を滝壺の中へ。
投げ込むのかト思いますト。
我ながら業の深さに情けない思いがいたしますが。
「坊ちゃま。堪忍してくだせえ。おめえさまを殺すのはわしではねえ。みんなあの浪江の奴の仕業でごぜえます」
そう言って目をつぶりまして。
岩の角へ足を踏み出しますト。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ト。
震える声で唱えながら。
えい、ままよト、懐の子を。
滝壺へ力いっぱい投げ込んだ。
哀れ、真与太郎の体は宙を飛び。
暗い水の中へと吸い込まれていきましたが。
どこかの蔦葛にでも引っかかってしまったのか。
おぎゃあおぎゃあト、火の着いたように泣く乳飲み子の声。
「坊ちゃま。堪忍してくだせえ。迷わず成仏してくだせえ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏――」
ト、正介がブルブル震えておりますト。
やがて、真与太郎の泣き声は、嘘のようにパタリと止みました。
するト、それと時を同じくするように。
木の間から漏れていた月はにわかに曇り。
滝の音も何となく静まったような気がして。
辺りは霧が立ったように朦朧とし始めた。
正介は背筋が何だか寒くなり。
おどおどト滝壺を覗き込んでみますト。
不思議に音もなく落ちていく滝のその中に。
現れたのは、真与太郎を抱き上げた、主人菱川重信の姿。
それは忘れもしない、去年の夏の晩。
落合の蛍狩りの帰りに殺された時の姿のままで。
胸のあたりはベッタリと血に染まっており。
髪を振り乱し、憤怒の形相でこちらを睨みつけている。
その腕にはすやすや眠る真与太郎。
「正介、よく聞け。主人をだまし討ちにした汝の罪、本来なら悪人浪江と姦婦おきせとともに、八つ裂きにしてくれても足りぬほどだ。だが、ここでお前を死なせてしまうわけにはまいらぬ。汝は今より改心し、我が倅をいずくなりへと連れてゆけ。立派に養育した上で、仇浪江をきっと討て。我が修羅の妄執を晴らすのだ」
「ひ、ひいぃッ――」
「――よいかッ」
ト、念を押したその眼光が。
正介の胸を鋭く射抜きました。
正介は総身に脂汗を流し。
「はッ。きっと、必ず。ようございます。ご免なせえ、旦那様。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏――」
ト、必死に誓いを立てながら。
恐る恐る頭を上げて見てみますト。
いつしか重信の姿は消えている。
膝の上には真与太郎が、ちょこんと座っておりました。
――チョット、一息つきまして。