こんな話がございます。
千住の小塚ッ原に、あまり流行らない居酒屋がございまして。
夫婦二人で切り盛りしておりましたが。
流行らないというのはそれはもう当然で。
小塚ッ原と申しますと、江戸に二つしかない処刑場の一つでございます。
もっとも、そんなものは二つあれば十分ではございますが。
ともかく、こんなところで酒を呑みたいという御仁はあまりいない。
ところがただ一人、奇特にも常連の客がございまして。
棒手振りの八百屋の爺さんが毎晩せっせと通ってくる。
天秤棒を担いだ行商ですナ。
この爺さん、変わっていることがまだ一つある。
いつも飯盛茶碗に半分だけ酒を注いでもらい、お代も半分にしてもらっておりました。
当人に言わせると、いつ酔っ払って粗相をするかわからないので。
ト、いうことだそうでございますが。
どうやら、店の側では目分量で注ぎますので、半分頼めばどうしても人情で量が多めになる。
半分を二回頼んだほうが、一杯を一回頼むよりいくらか得だ、ト考えたようでございます。
それが証拠に、半分だけ注がれた酒をぐいと一気に呑み干しますト。
「ご主人、もう半分おくんなせえ」
ト、すぐに茶碗を差し出すのが常でございました。
白髪頭に、ギョロッと目玉は大きいが、どこか陰に籠もったところがございまして。
「もう半分」の他には、一切何も喋りません。
店の端っこで黙々と酒を煽って、時が来るとふらっと帰る。
主人夫婦は何だか気味が悪いとは思っておりましたが。
それでも、大事な常連には変わりありません。
女房の腹には子が宿っている。
少しでも多く稼がないといけない。
トいう事情もございまして。
求められるまま、いつも半分ずつ酒を注いでやっておりました。
その晩も「もう半分」「もう半分」の声が、店の片隅から繰り返し聞こえておりましたが。
ふらりと帰っていった爺さんの席を片付けておりますト。
風呂敷包みが落ちていることに主人は気がついた。
気になって手に取ろうとすると、いやにずしりと重い。
妙に思って開けてみますト、これは大変だ。
二十五両一包みの小判が、なんと二つ。
合わせて五十両の大金が入っている。
「おい、大変だ。あの爺さん、こんな大金を忘れて行きやがった」
ト、主人は慌てて爺さんの後を追おうといたしますが。
その袖を強く引き返したのは女房です。
妙に声を潜めて、なじるように申しますには。
「馬鹿だね、お前さんは。私のお腹をよくみてごらんよ。このままちっぽけな商売を続けて、どうやってこの子を食べさせてやるつもりだい。その金があれば、もっと市中に近いところで大店(おおだな)を出すことだって出来るじゃないか。大体、いつも『もう半分』『もう半分』なんて、お代以上に吸い取られてるんだから、これでおあいこだよ。戻ってきたら、しらばっくれてやりゃあいい」
ト、毒婦の元締めのような悪い女で。
主人は爺さんに悪いと思いましたが、甲斐性がないだけに何とも言い返しようがない。
ちょうどそこへ、爺さんが目の色を変えて駆け込んでまいりました。
「こ、ここに、風呂敷包みがありませんでしたか」
「ありませんよ。ついさっき片付けたばかりですけど、あったら分かるはずですからね」
女房は主人を目で制して、空とぼけている。
「そんなはずはない。つい今しがたここを出て、それから幾らも歩いていない。ここになかったら、どこにあるんです」
「知りませんよ。それとも何ですか。あたしたちがその金を盗んだとでも言うんですか」
度胸の据わった女房で、みずから進んで攻めに掛かります。
珍しくまくし立てていた爺さんでございましたが。
「おかみさん――」
ふと元の陰気さを取り戻したように、そう呟きました。
「あの金はね、ただの金じゃないんですよ。なけなしの稼ぎのために、毎日天秤棒を担いでいるわたしを見て、娘がね。たった一人の娘が、吉原に身を売って作った金なんですよ。その代わりもう、お酒は呑まないでね、と釘を差されてきたばっかりなのに、どうしても酒の味が忘れられなくてね。半分だけならいいだろうと、ついここへ寄ったのが運の尽きでした。そういうわけですから、ねえ、おかみさん。どうか返してやっておくんなさい。あの金をなくしたとなると、娘にあわせる顔がありません」
盗んだものと決めつけられたものだから、女房も腹が立ちまして。
「しつこいね。あんまり妙な言いがかりをつけると、出るところへ出てもらうよッ」
ト、どやしつけました。
爺さんはがっくり肩を落としまして。
「分かりました。どうしても返していただけないんですね。それじゃあ、仕方がない」
大きくため息をつきますト、とぼとぼと店を出て行きました。
――チョット、一息つきまして。