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砧(きぬた)

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こんな話がございます。
足利時代の話でございます。

筑前国の芦屋ト申すところに、何某という男がございました。
この男は、訴訟のために京に上って、はや三年が経っておりました。

この頃の訴訟というのは、大抵が武士同士の土地を巡る争いでございまして。
所領権を巡って諍いが起こりますト、将軍家に訴えて仲裁をしてもらいます。
ところが、こうした諍いはあちらこちらで起きておりますから。
ひとたび訴えを起こしましても、裁決が下るまでに相当の時間がかかります。

故郷には妻が寂しく待っている。
何某は気がかりでなりません。
しかし、訴訟はなかなか終わりそうにない。

そこで、連れて来ていた侍女の夕霧を先に返しまして。
ともかくも「今年の暮れには必ず帰る」旨を伝えさせることにした。

夕霧は少女の身ながら、京から筑紫まで一人で旅を続けまして。
ようやく、秋の終わりに芦屋の里へたどり着きました。

すでに陽は傾きはじめている。
夕霧にとっても三年ぶりとなる懐かしい屋敷。
しかし、家内はひっそりと静まり返っております。

「奥様。夕霧でございます。都から戻ってまいりました」

その声が虚しく響きます。
しんとして、返事はございません。

地に落ちた長い影を眺めながら、夕霧がただ待っておりますト。
しばらくして、家の奥からのそりのそりト現れたのは。
三年ぶりに見た奥方の、やつれ果てたお姿で。

奥方は廊下に現れますト、夕霧をじろりト一瞥する。

「夕霧と申しましたか。おお、言われてみれば見覚えがありますよ」

妙によそよそしい出迎えを、夕霧が意外に思っておりますト。
奥方は、いやに肩をすくめ、腕を抱えてさすりながら。

「ただでさえ一人寝の寂しい衾から出てきたところです。涙で枕も袖も濡れています。秋風が身に沁みますから、何か用があるなら早くおっしゃい」

ト言って、その後は顔も合わせようとしない。

夕霧は戸惑いながらも、主人何某からの言伝を伝えました。

「夫も人ですから、心が変わるのは仕方がありません。しかし、風のたよりにもまるで音沙汰がないのは、どうしたことです」

吐き捨てるようなその言葉に、夕霧もようやくはっとする。
三年の長い年月を一人で待った、奥方の寂しい心の内が知れました。

「ご主人様は心変わりされたのではございません。早く帰りたいとはお思いながら、訴訟の忙しさに、不本意ながら三年の月日を都で過ごすことになったのでございます」

ついいらぬ弁明をしてしまったのが、夕霧の誤りで。

「不本意ながら、ですって」

奥方が、夕霧をふたたびじろりト見る。




「華やかな都暮らしで、お前もあの人も、さぞかし楽しいことがたくさんあったでしょうに」

秋風に枯れすすきが、さらさらト音を立ててなびきました。

「お前には頼る主人がありましょうが、私はこの鄙の地で枯れ果てていくばかりです」

そう言って、奥方は家の奥へ入っていきました。

夜。
白い月の光が高窓から差し込む、秋の夜寒。
遠くから、ターン、ターンと、板を打ち付けるような音が響いてくる。

「一人になってから、いつも不思議に思っていましたが、あれは一体、何の音です」

髪を梳かせながら、奥方が夕霧に尋ねました。

「あれは里の者が砧を打つ音でございます」
「ああ、あれが砧ですか」

奥方は納得したように頷きました。
夕霧は、貴人の奥方が、砧などというものを知っていることに驚きました。

ご存知でしょうが、砧というのは、下々の女が夜に打つのが習わしですナ。
衣を洗濯した後に、固くなったり皺が寄ったりしたのを、石の台の上に伸ばして棒で叩く。

「砧をご存知でございますか」

奥方は夕霧を振り返りもせず。

「昔、唐土(もろこし)に蘇武という人がありました。胡(えびす)に捕らえられて十数年を敵地で過ごしたのです。故郷に残された妻子は、恋しさのあまり、高楼に登り、胡地に向かって砧を打ったといいます。それで寂しさが癒えるのなら、私もひとつ打ってみましょう。あなた、髪はもういいですから、ここへ砧を持っていらっしゃい」

唐突な申し出に夕霧は大いに戸惑いまして。

「奥様、あれは下々の者が扱う道具でございます。奥様のようなお方にお渡しするわけにはまいりません」

言い終わる前に夕霧の言葉は震えはじめておりましたが。
奥方は、振り返ってキッと夕霧を睨みますト。

「いいえ、打ちます。今宵は心ゆくまで、砧を打ちます。持って来なさい」

ト、毅然と言い放つ。

打つ。
打つ。
打つ。

その言葉に、夕霧は何故か寒気を覚えました。

――チョット、一息つきまして。

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