こんな話がございます。
またぞろ、妲己のお百(だっきのおひゃく)の悪行譚でございます。
さて、お百の義理の兄である、棒手振り魚屋の新助でございますが。
おきよの残した赤ん坊を、男手一つで必死に育てました。
近所の者たちもこれに大層同情いたしまして。
魚を買いがてら、乳飲み子の面倒を見に集まってくる。
新助が切り身にしている間に、脇に連れて行って乳をやる者もございます。
血は繋がっていないとは言うものの。
己の義理の妹が、この子にとっては親の仇。
きっとこの小父貴が、助太刀をいたしましょうト。
赤子の成長ばかりを心の支えに、日々を暮らしておりますが。
そこはやはり、男やもめでございますから。
一日中、商売と子育てに追われておりますト。
長屋に戻った時分には、すっかり疲れきっている。
赤子を抱いたまま、いつの間にかグウグウと寝てしまいます。
そうして夜中に、ふと目を覚ますのが常でございましたが。
ある晩のこと――。
九つ(零時)の鐘の音で、ハッと目を覚ましますト。
点けっぱなしになっていた、行燈のほの暗い灯りのその陰に。
やせ衰えた女が立っている。
糸のような白く細い手。
その手に小さな赤子を抱き。
乳を口に含ませている。
「お、おかみさん――」
思わず新助が声を漏らしますト。
おきよの霊は、悲しそうな顔を、ゆっくりとこちらに向けました。
「おかみさん、出るところを間違えていらっしゃる。どうか、こんな貧乏長屋ではなく、桑名屋の方へ出てやってくださいまし――」
新助が古畳に額をこすりつけておりますト。
いつしか、赤ん坊が一人で泣いている。
おきよは姿を消しておりました。
それから幾日も経たぬうちに。
大坂じゅうに嫌な噂が立ち始める。
曰く、川口の廻船問屋、桑名屋の家に幽霊が出る――。
暮れ方になると、川口の往来は止まるらしい――ト。
一犬、虚に吠え、万犬これに和すトハ申しますが。
いつしかその噂が、あたかも事実のように一人歩きをする。
もっとも、火のないところに煙は立たぬとも申します。
ともかくも、人々は桑名屋徳兵衛とその新妻お百の非道を口々に謗りました。
そして、おきよが死んで三年目の忌日の晩――。
火の気のないはずの土蔵から火が出まして。
たちまち桑名屋の本宅から店蔵、奥蔵までを焼き尽くしました。
「なに、まだ河岸(かし)の蔵が残っている。それに親船も二艘ある」
金がなければ商売人はただの人でございますから。
徳兵衛はお百を引き止めるために、必死で虚勢を張っている。
ところが、こういう時にものを言うのは人望でございます。
「おい、桑名屋の河岸蔵がまだ残っているぞ」
「仏罰だ。潔く丸焼けにしてやれ」
ト、二人の行状を快からず思っていた者たちが、火を放ちまして。
唯一残っていた河岸蔵までが失われてしまった。
するト、翌日早く――。
今度は抱えている船頭二人が、桑名屋の仮宅へ乗り込んでくる。
「旦那、大変なことが起きました」
「天神丸に明神丸が、シケに遭って沈みました」
徳兵衛はさっと青ざめて、震え声で尋ねます。
「に、荷はどうした」
「全部沈みました」
「いや、荷どころじゃない。我々二人を残して、他の乗り手はみな死にましたよ」
そのやり取りを奥で聞いていたお百が、苛立った様子で徳兵衛を呼び寄せます。
「何を縮み上がっているんですよ」
「だ、だって、お前――」
「あんなもの、嘘に決まってるじゃありませんか。ああいうのを火事場泥棒と言うんですよ」
「しかし、今の状態でどうしろと――」
おどおどしている徳兵衛に、お百が耳打ちをいたします。
それから、背中をドンと押されまして。
徳兵衛が、船頭二人の前に出てまいりました。
「今度の難船では、本当に苦労をさせた。乗り手たちの弔いも盛大に出してやりたいが、知っての通り店は丸焼けになってしまった。ここに二両ある。少ないが、これで私の代わりに弔いを出してやってくれ」
船頭二人は文句も言わずに、金を受け取って懐にしまう。
「ところで、一つ頼みがある。船が二艘とも沈んでしまったとなると、俺の身代はもう何も残らない。廻船問屋としての信用にも関わる。今度のことは、どうか黙っていてくれないか」
二人の船乗りは、すべてを呑み込んで、立ち去りました。
それから徳兵衛は、無事なのかどうかも分からない、親船二艘を抵当に入れまして。
あちらこちらへ無心をして回り、なんとか百五十両の金を借り集めてまいりました。
この金を持って、その晩のうちに。
お百と大坂を逐電いたしまして。
一路、江戸を目指しましたが。
これすべて、毒婦の入れ知恵によるものでございます。
――チョット、一息つきまして。