こんな話がございます。
平安の昔の話でございます。
美濃国の生津という地に、紀遠助(きの とおすけ)ト申す者がございまして。
とある縁から、京東三条の関白殿の屋敷に長年勤めておりましたが。
ついに暇をいただき、美濃国へ帰ることになりました。
その帰路に通り掛かったのが、名橋、瀬田の唐橋で。
これはヤマトタケルノミコトの父、景行天皇の御代に架けられたという。
由緒正しき古橋でございます。
さて、遠助が従者とともに馬でこの橋に差し掛かりました時。
ふと見ますト、橋の上に女が一人立っている。
衣の褄を取って、ただぼんやりとしております。
夜明け前。
空がようやく白み始めた頃。
瀬田川から立ち上った朝もやが。
橋を白く覆っている。
遠助は、チョット不気味に思いながらも。
知らぬ顔をして通り過ぎようとした、その時に。
顔も合わせず、ただ固まったように立っていた、その女が。
不意に、首をこちらに回して呼び止めた。
「もし」
遠助がやって来た方向を向いて、直立していたその女が。
今見ると、首だけこちらにグイッと向けて、じっと遠助を見ている。
白帷子のような衣に長い黒髪を垂らしておりますが。
どこかその装束が、見たこともない奇妙な出で立ちのように見えました。
白いもやに包まれて、黒髪と黒い瞳だけが、虚空に浮いているかのよう。
「もし、あなたはどちらへ」
聞かれて遠助は思わず、ゾッといたしましたが。
後方離れたところで従者が控えておりますので。
無理に落ち着いた風を装いまして。
鷹揚に馬から降りますト。
「美濃国へ帰る途次でございます」
ト、有り体に答えました。
するト、女はふッと笑みをこぼしまして。
「それでは、あなたに託したいものがございます」
ト、ささやく様に言いました。
「いいでしょう」
ト、答えるしかない。
「それは嬉しい」
女は純真そうに一言漏らしますト。
懐から絹に包まれた小さな箱を取り出しまして。
「この箱を方県郡唐郷の段橋のたもとまで持っていってくださいませ。その橋の西詰に、女官がひとり待っているはずでございます。その女官に渡してくださいませ」
顔をこわばらせて聞いていた遠助は、少し拍子抜けがいたしまして。
何かと思えば、くだらない役を引き受けたものだト、思いつつも。
ふと、女に視線を戻しますト。
やはり、体は橋の伸びる方向へ。
首だけがガクッと折れ曲がって、こちらをしっかと向いている。
改めて背中に寒気を感じたものですから。
今さら、むげに断ることもできません。
「その橋のたもとにいるという女官は名を何というのです。もし、そこにいらっしゃらなかったときには、どうします。そもそも、この箱を誰から託されたと伝えればいいのでしょう」
託された以上、落ち度があっては困りますので。
ひとつひとつ丹念に尋ねますト。
女はふふっと小さく笑い。
「行けばわかりますよ。きっと待っていますから。ただ――」
「ただ――」
遠助は、気になって訊き返した。
「決して箱を開けてはいけません」
その時、少し離れた朝もやの中で。
遠助の従者が何を見ていたかと申しますト。
己の主人が突然、橋の上で馬から降り。
もやに向かって、ぶつぶつとひとりつぶやいている姿でございました。
――チョット、一息つきまして。