UTAGAWA KUNIYOSHI
妖気と新奇
歌川国芳(うたがわ くによし)は妖と奇の画師である。
たとえば歌麿を寛政期(1790年代)、北斎を文化文政期(1810~1820年代)の人とするならば、国芳が絵筆に依って人となったのは天保年間(1830年代)、その円熟期とされるのはさらに嘉永年間(1850年代)まで降る。浮世絵史においては晩期に属する人と言って良い。
町人文化の爛熟期は一段落し、奢侈禁止令や未曾有の大飢饉により、社会に沈鬱とした空気が蔓延していただろう時代である。巷には飢えと悪事がはびこり、海の向こうからは大砲のきな臭い匂いが徐々に近づきつつあった。
そんな重苦しさの中に登場した国芳の画は、いつも妙な生臭さと斬新さに溢れていた。人物は妖しい生命力に満ちている。まるで隣り合う死の匂いに突き動かされているかのようだ。構図や着想の斬新さは、忍び寄る蒸気船の気配に、知らず知らずかきたてられてのものだったろうか。
出世作「水滸伝」連作
国芳の名を一躍、世に知らしめたのは、文政末から天保初にかけて発表された一連の水滸伝物の成功であった。
以下、文政十年(1827年)刊「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」より。
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続いて「本朝水滸伝豪傑(剛勇)八百人之一個」より。前作の好評を受けて、天保元年(1831年)以降順次刊行された。日本の英雄を水滸伝の豪傑になぞらえたもの。
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武者絵――構図の近代性
国芳と言えば何と言っても、前項の水滸伝物を始めとした武者絵であろう。全盛期の嘉永年間にかけて、構図の妙とダイナミズムはより洗練されていく。
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