読本挿絵時代
寛政十年(1798)、北斎は宗理の号を弟子に譲った。
その後は、宗理時代から用いていた「北斎」を主として名乗るようになる。
(かつて北斎宗理と名乗っていた時期があった)
初めて葛飾北斎と名乗ったのは文化二年(1805)、北斎46歳のときであった。
この時代の北斎は、読本挿絵の仕事を多くこなしている。
特に、曲亭馬琴(滝沢馬琴)の作に提供した「新編水滸画伝」「椿説弓張月」などが知られている。
宗理時代とは打って変わり、大胆かつ豪快な画面構成が際立っている。
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曲亭馬琴作「椿説弓張月」より 妖僧朦雲の出現場面
少年漫画の1ページを見るようだ
曲亭馬琴作「椿説弓張月」より
主人公源為朝の子、舜天丸が矇雲を斬る
曲亭馬琴作「新編水滸画伝」より
こうした光の放射表現は北斎が独自に編み出したものとされる
西洋画法の習得
北斎は春朗時代より、浮絵をしばしば制作してきた。
浮絵とは、西洋画的な透視図法を用いた絵の総称。
遠近感に慣れていない日本人には、浮き上がって見えることからこう呼ばれた。
オランダ商館を通じて流入した西洋銅版画から、当時の絵師たちが学んだものである。
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この時期には更に一歩進んで、銅版画のタッチを木版画で再現することを試みている。
遠近感にとどまらず、陰影法やハッチング(細かい線で影の濃淡を表現。紙幣印刷でも用いられている)などの技術も見られる。
また、銅版画の茶系の色合いや額縁、字体(実はひらがなを横に倒したもの)まで真似ている。
「ぎやうとくしほはまよりのぼとのひかたをのぞむ」
右上に横倒しで題字と「ほくさいゑがく」の文字が書かれている
絵手本と「北斎漫画」
文化七年(1810)、北斎は「葛飾北斎戴斗」と初めて名乗る。
この頃の主な仕事は、絵手本の制作であった。
これには、当時増えすぎた門人たちのために、効率よく手本を与える意味があった。
また、子供から文化人まで、素人の自習のためにという理念もあったようだ。
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「三体画譜」より
同じ対象を三種の様式で描き分けるという趣旨
文化九年刊「略画早指南」では、樋定規とぶんまわしを使って絵を描く方法を紹介している。
樋定規(ひじょうぎ)は直線を引くための定規、ぶんまわしはコンパスのことである。
こうした絵手本の代表作品が、文化十一年に発行された「北斎漫画」である。
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人物、動物、社会風俗など、ありとあらゆるもののスケッチを集めたもの。
現代で言えば、さしずめ「ポージング集」といったところか。
1.狂歌摺物と宗理風美人
2.読本挿絵と北斎漫画
3.富嶽三十六景と画狂老人卍
4.余苦在話 ト 北斎