ベロ藍が産んだ傑作「富嶽三十六景」
文政三年(1820)、61歳となった北斎は新たに為一(いいつ)の号を用い始める。
なお、この時期においても、戴斗期に引き続き「北斎改メ為一」「前北斎為一」などと名乗っていた。
いかに「北斎」の号が世間に浸透していたかが分かる。
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文政年間(1818~1830)には、宗理時代によくした狂歌摺物の仕事を多くこなした。
天保年間(1830~)に入ると、一転して膨大な点数の浮世絵制作に励むようになる。
その代表的作品が、天保ニ年より順次刊行された「富嶽三十六景」全46点である。
刊行当時、北斎はすでに70歳を超えていた。
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「富嶽三十六景 甲州石班澤」
前景の漁夫と後景の富士が相似の関係をなしている
鮮やかな藍色は、舶来の人工顔料「プルシアンブルー」によるもの。
「ベルリン藍」が江戸っ子風に訛り、「ベロ藍」と呼ばれていた。
後にヨーロッパにおいて「ホクサイブルー」と呼ばれる美しい青。
実はヨーロッパからの輸入品だったのである。
北斎が切り拓いた風景画の新地平
「富嶽三十六景」は、当時の分類に従えば名所絵に該当するシリーズである。
ただし、決して単純な名所絵ではなかった。
北斎は名勝古跡ではなく、人と自然の織りなす情景そのものを描いた。
その視点は後続のシリーズにおいても変わることはなかった。
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画狂老人卍
主要な画号の中で、北斎が最後に名乗ったのが「画狂老人卍」である。
天保五年(1834)、75歳のときであった。
晩年の北斎は、商業的な制約の多い浮世絵版画を離れ、より自由な肉筆画に傾注していく。
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そして最晩年。
天保の改革による幕府の弾圧を嫌い、信州小布施の高井鴻山のもとへ身を寄せた。
土地の豪農であった鴻山は北斎の門人となり、またパトロンともなった。
83歳から死去前年の89歳まで、実に4度も小布施に足を運んだ北斎。
鴻山の庇護のもと、大作を次々と手がけていく。
その対象はもはや紙でも絹でもない。
天井という大きなキャンバスであった。
老いてもなお飽くことなく、新たな表現の可能性に挑んだ画狂人。
変転し続けたのは、住処や画号ばかりではなかったのである。
※参考文献
永田生慈「葛飾北斎の本懐」(角川選書)
大久保純一「ジャパノロジーコレクション 北斎」(角川ソフィア文庫)
1.狂歌摺物と宗理風美人
2.読本挿絵と北斎漫画
3.富嶽三十六景と画狂老人卍
4.余苦在話 ト 北斎