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文弥殺し 宇都谷峠

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こんな話がございます。

江戸の柴井町に、居酒屋を営む伊丹屋十兵衛と申す者がございました。

この十兵衛はもと、武士でございます。
大名佐々木家の重臣、尾花六郎左衛門の家来でございましたが。
主人、尾花の急逝以来、町方で商人として身を立てておりました。

主人の尾花六郎左衛門の死は、切腹によるものでございました。
家中で敵対していた奸臣、筑田喜蔵(つくだきぞう)の罠にかかったのでございます。

佐々木家には「花形の茶入れ」ト申す家宝がございましたが。
尾花はこれを管理する立場にございました。
筑田はそこに目をつけ、己の家来の小兵衛と申す者と共謀いたしまして。
家宝を盗み出し、密かに質に入れたのでございます。

尾花は、家宝紛失の責任を負わされ、詰め腹を切らされたのでございました。

仕えた尾花が、このように突然世を去りましたので。
十兵衛は町人となって、居酒屋を切り盛りしておりましたが。

ある時、ふとしたことから、尾花の娘が遊女に身を落としていることを知りまして。
亡き主人に対する忠義から、二百両を借金してまで身請けし、己の妻といたしました。

ところが、しがない商人にすぎない十兵衛に、この二百両はあまりに重い。
半分の百両は商売の儲けでなんとか返済いたしましたが。
残りの百両がどうしても工面できません。
弱り果てているところに、ある日、思わぬ人物と再会いたしました。

妻のおしずの兄であり、亡き主人、尾花六郎左衛門の倅、才三郎でございます。

実は、主君の佐々木殿は、尾花が免罪であることに、薄々気づいておりまして。
失われた家宝の探索を、倅の才三郎に密かに託していたのでございます。

無事に見つけ出した暁には、尾花家の再興を許してつかわす――。
それが殿様からのご恩情でございました。

借金をしてまで妹を身請けしてくれたのでございますから。
才三郎にとっても、十兵衛は忠臣でございます。
そこで、懐から金百両を取り出しますト、十兵衛に貸し与えました。

「十兵衛、貴様の忠義にはこの才三郎、心から感謝しておる。本来なら、貸すなどと言わずに、褒美に取らせてやりたいところだ。しかし、忘れてくれるなよ。俺も今はこの通り、浪人の身だ。この百両は殿様から、家宝の探索費用としてお預かりしたもの。なるべく早いうちに返済してもらわなければ、俺も困る」

十兵衛もその事情は痛いほどよくわかります。

とは言え、横丁の居酒屋風情が、おいそれと大金を用意できるわけがない。
それ以来、あちらこちらを金策に奔走いたしましたが。
どうにもならず、ついに京の知人を訪ねて無心をすることに決めました。

ところが、運命というものはどうも皮肉にできているようでございまして。
やっとのことで訪ね当てますと、当人はしばらく前に病で亡くなったトいう。
面識のない後家に、金の無心をするわけにもまいりません。

十兵衛は肩を落とし、空手で江戸へ帰ることになりました。

このままでは、才三郎に借りた百両を返せなくなってしまいます。

――旧主のご子息を窮地に追い込むことになるか。
さもなくば妻のおしずが娼家に連れ戻されてしまうか――。

思いつめたまま、十兵衛は東海道、鞠子の宿へやってまいりました。
旅籠はどこも客でいっぱいでございます。
十兵衛は相部屋に泊まることになりました。

十数人の男客と雑魚寝をして、夜は更けていきましたが。
枕元で物音がするのに気づいて、十兵衛は目を覚ましました。
どうやら、何者かが旅客の荷物を盗もうとしている様子です。

「泥棒ッ、泥棒だ」

十兵衛は叫びながら、賊の足首をむんずと掴む。
相客たちが騒ぎながら目を覚ます。
パッと明かりがつきますと、立っていたのは相客の一人。
掴んでいたのは、これまた相客の按摩の荷物。

「盲の荷を盗もうたあ、ふてえ野郎だ」
「ソレ、簀巻にして安倍川へ投げ込んじまえ」

相客たちはいきり立って、賊の男を取り囲む。
男は、土下座をして命乞いをしております。

「命だけはお助けください。ほんの出来心でございます」

十兵衛はそれを見ておりますト。
慈悲心が湧いたわけではございませんが。
同じ金で苦労している者が、にわかに哀れに思えてきまして。

「何も殺してしまうことはない。身体を検めて、追い払えば済むことでしょう」




ト、とりなしました。
相客たちも、捕まえた人間がそういうのならト、同意いたしまして。
男は十兵衛に深々と頭を下げながら旅籠から去って行く。

翌朝、十兵衛が出立の支度をしておりますト。
後ろから近づいてきた者がある。
例の盲の按摩でございます。

「昨晩は危ういところをお助けいただき、ありがとうございます。これを機にお近づきのほどよろしくお願いいたします」

按摩は見えぬ目で十兵衛を見上げて、申します。

「文弥さんと言うのかい。目の見えぬ身で一人旅は苦労が多かろう」
「さあ、そのことでございます。実は旦那様にひとつお願いがございまして」
「なんだい。私に出来ることなら聞きますが」
「昨晩の賊でございますが、あれは提婆の仁三(だいばのにさ)と申しまして、この街道で名の知れた賊でございます。実は、神奈川宿からずっと私をつけてきたのでございます」
「なんと。出来心だと言っていたが。そうと知ったら逃しはしなかったものを」
「あれがまた追いかけてくるかと思うと、気が気でございません。そこでお願いなのでございますが、どうか私とご同行願えませんでしょうかな」

文弥はすでに十兵衛の袖にしがみついている。
よほど、賊を恐れている様子でございます。

「それで、文弥さん。あなたはどこへ行くんです」
「私は京へ参るところでございます」
「いや、それでは難しい。私は京から江戸へ帰る道ですよ」

そこをどうしてもト、文弥が申しますので。
十兵衛は、とりあえず宇津ノ谷峠まで送ってやることにいたしました。
これは道の細い断崖で、目明きにとっても危険な難所でございます。

「それにしても、文弥さん。こう言ってはなんだが、神奈川からつけ狙うほどの価値が、あなたにあるようにも思えませんがな」

ちょうど峠にさしかかろうというところで、十兵衛はふと気になって訊きました。

「それが、十兵衛さん。実は私もすこし金を持っているのです」
「それは、誰でも持ってはいましょうが」
「あなたは目明きですからご存じないでしょう。我々には官位というものがございます。位が上がれば上がるほど、暮らし向きも楽になります。ところが、この官位というものは今では金で買うのが習いでして。それには京へ出向かなければなりません。提婆の仁三はそれを知っていたのに違いありません」

何の気なしに尋ねた十兵衛でしたが、その話に思わず興味をいだきまして。

「ほう、それでいくら持ってきたんです」
「私は上から四番目の座頭の位を買おうと思いまして。百両を用意してまいりました」

ト、文弥が声を潜めて言う。
十兵衛は何も答えません。

「オヤ、十兵衛さん。今、背中の包みに手を掛けましたか」
「いや、石に躓いてよろめいたので」
「ああ、びっくりした。十兵衛さんにまで狙われたら、私は京へ辿りつけませんからな」
「いや、つけ狙うわけではないが――」

十兵衛は立ち止まって、文弥の袖を引き留めた。

「その百両、お慈悲と思ってこの十兵衛に貸してはくださりませんか」

文弥ははっと息を呑む。
足を踏み外せば命はないと言われる宇津ノ谷峠。
辺りは人の気配もない。

「十兵衛さん。恩に背くわけではございませんが、これは姉が吉原に身を沈めてまで作った百両です。官位も取らずに人に貸したとなっては、姉に義理が立ちません。どうか、お聞き分け下さりませ」

十兵衛はしばらく黙っておりましたが。

「なるほど。そういうことなら、仕方がない。私も切羽詰まって、失礼なことを申しました。さあ、ちょうど峠の降り口ですから、これを機にここで別れることにしましょう。私の言ったことは忘れてください」

文弥は内心ほっとしながら、何度も頭を下げて、十兵衛の立ち去るのを待ちました。
そのうちに物音も消えましたので、きびすを返して歩き出そうとしたその時――。

「許してくだされ、文弥殿」

物陰に隠れていた十兵衛が、文弥の背中に斬りかかった。

「十兵衛さん――。あなた、初めから殺して盗る気だったか」

文弥は恨めしそうに虚空を掴むト、バタッと力なく倒れました。
辺りに血の池が広がります。
蔦の葉がもみじの色に染まりました。

――チョット、一息つきまして。

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