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旅店の黒妖

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こんな話がございます。
唐の国の話でございます。

よく、旅を人生に譬える御仁がございますが。
宿屋はさしずめ、人生の吹き溜まりと申せましょう。
吹き溜まりであるからには、あまり良い物は溜まっていない。
旅立っていくのは、清々しい大志ばかりでございます。

ここに、孟不疑ト申す一人の若者がおりまして。
科挙を受けるべく、長旅をしておりましたが。
昭義ト申す地に至り、土地の旅店に逗留いたしました。

かの国の習俗では、誰もが土足で部屋へ上がります。

とは言え、そこは人間ですから。
足かせをはめっぱなしでは、疲れも癒やされない。
そこで、宿へ着くとまず沓を脱ぎまして。
下女が足をすすいでくれることになっている。

時しも孟が、用意された盥に足を浸しまして。
ホッと一息ついておりますト。
何やらドヤドヤと騒ぎたてながら。
数十人もの一団が入ってきた。

周囲の囁きに耳を傾けますト。
どうやら、姓を張ト申す、この辺りの役人らしい。

「おい、商売の方はどうだ」
「親父の病気は治ったか」
「ここのところ、顔を見なかったな」

――ナドと。
土地の顔役気取りで、一人ひとりに声をかける。

田舎の小役人風情が、何をそう横柄にト。
孟は不愉快に思わないでもございませんが。
客地ではその顔役と通じておくのが、古今東西の処世術でございます。

早くも広間では、張と取り巻きを中心に、宴会が催されている。

孟は作り笑顔を浮かべまして。
酒を持って、挨拶に出向きましたが。
張はすでに酔っております。
擦り寄ってきた孟を、訝しそうにじっと見ますト。

「向こうへ行け。酒がまずくなる。いい若い者が努力もせずに、便宜を図ってもらおうなどとは、小賢しい。親孝行でもしろッ」




ト、もっともらしいことを言う。

孟はいよいよ不快に思いまして。
適当に引き下がり、広間の端の席に一人座りつつ。
一団の騒ぎを遠巻きに眺めておりましたが。

張は周囲に持ち上げられて、グイグイと盃を空けていく。
髭の生えた大男が、泥のように酔いますト、

「おいッ。料理をもっと持って来いッ」

ト、ただでさえ大きな声を張り上げます。

孟は孟で、己を前途洋々たる若者ト思っておりますので。
田舎の小役人のまま人生を終えるだろう、この男の横柄さが。
哀れでもあり、滑稽でもあり、やはりまた腹立たしくもありました。

「こんな無価値な男は、そこらで頓死でもしてしまえばいい」

思わず、胸の内でそんな悪態をつきましたが。

その悪念を合図にでもしたかのように。
そこへ、数々の料理が隊列を組んで運ばれてきた。

ト、よく見るト、その隊列の中に。
おかしな影が混じっている。

それは黒い猪(しし)のようにも見える、影の塊で。
まっすぐに突進してきますト、燈籠の下ですっとその姿を消しました。

――チョット、一息つきまして。

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